Page 9 - Bonhams Katchen Collection of Netsukes
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1926年、アメリカ、ニュージャージー州のロングブランチに生まれたジュリアス・カッチェン
は、20世紀を代表するピア二ストの1人でした。弁護士とピア二ストの両親のもとで、彼は祖父母
から音楽を学びました。ロシアからアメリカに移住した彼の祖父母は、モスクワとワルシャワの
音楽学校で教えた経験を持っていました。ジュリアスは神童でした。幼い頃から抜きん出ていた
音楽の才能に加えて、水泳と卓球においてもトップクラスであり、さらには4年制の哲学のコース
を3年間で終えてしまいました。
ジュリアスと彼の妻であるアルレットは、音楽と根付という2つの大きな関心事を共有していま
した。1953年、ピアノ・コンサートの旅で日本を訪れた際に、2人は初めて根付に出会い、京都で
根付を購入しています(ロット123、ジュリアス&アルレット・カッチェン根付コレクション第一
部、2016年11月8日)。それからというもの、世界中の名だたるコンサートホールでの演奏会で演
奏する合間を縫って、どんな場所であろうとできる限りの時間を作って、2人は美術商やオークシ
ョン会場を訪れました。当時、まだ根付蒐集に関する文献資料はほとんど存在しなかったにも関
わらず、2人は熱心に研究を重ね、ヘンリー・ジョリーやフレデリック・マイナーツハーゲンの資
料をもとに、アートとしての根付の複雑さ、作者、作品主題について瞬く間に学んでいったので
した。ロンドンにおいては、美術商のジオフリー・モスと親しくなり、1969年4月、ジュリアスが
42歳という若さで死を迎えるまでの間、根付を購入し続けたのです。
ジュリアス・カッチェンの社会における名声が、彼を脚光を浴びる立場へと押し上げていきま
したが、自らの根付コレクションに加える根付の選択、購入となると、彼とアルレットは二人で
一緒に決定しました。彼らはロンドンを頻繁に訪れ、サザビーズにおいて、1967年から1969年に
開催されたM. T. ハインドソン・コレクションを扱ったオークションの、最終回以外のすべての
回に出席しました。しかし、残念ながらジュリアスは、どうしても出席したいと切望していまし
た最終回のセールの2ヶ月前に亡くなりました。ジュリアスの早過ぎる死の後も、アルレットの根
付に対する興味は尽きることなく、ひっそりとコレクションの蒐集を続けていました。
ジュリアス・カッチェンの好んだ根付の傾向は、大雑把にひとくくりにし過ぎの言い方かもし
れませんが、18世紀のサイズが大きいダイナミックものを好んでいました。一方、アルレットは
サイズが小さめですっきりした、それ以降の作品に魅力を感じていました。2人とも、18世紀後半
から19世紀前半の京都の著名な根付師の作品と大阪の根付師・懐玉斎の後期の作品を好んだ点で
は一致していました。ただし、ボナムズにおける第1部オークションおよび第2部、第3部のオーク
ションには、あらゆるスタイル、素材を扱った様々な根付師の作品が出品されております。
私個人の思い出としては、幸いにも、60年代にパリに住んでいたカッチェン夫妻を何度となく
お訪ねする機会に恵まれました。2人は完璧なもてなしで迎えてくれて、根付という共通の関心
事について、時には夜明けまで、根付師それぞれの作風について、何時間も話したものです。ま
た、根付に刻まれる銘、眼の形、毛並み、動物の足の彫り方についても語り合いました。そのよ
うな中で、京都の名高い根付師や岐阜の友一とその門人が話題にのぼったものです。あるとき、
私は夫妻のお住まいに予定より早く到着してしまったことがありました。私は彼らのアパートの
小さな書斎へと案内され、隣の広間でジュリアスが2台のコンサート用グランドピアノで練習をし
ているのを聴きながら、アルレットと会話を楽しみ、彼らのコレクションを眺めて時を過ごしま
した。決して忘れることのできない、またとない喜びのひとときでした。
カッチェン・コレクションの根付の多くは、何年間にもわたってオークションに出品されたほ
か、販売されて参りましたが、素晴らしいコレクションの中でも今日まで残されてきた根付を、
3回のオークションに分けて、このたび皆様にご紹介できましたことは、ボナムズにとって大変名
誉なことであります。
ニール・デイヴィー