Page 70 - Christie's The Joseph Collection of Japanese Art
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有田の初期色絵(古九谷様式)大皿
大橋 康二 (佐賀県立九州陶磁文化館特別学芸顧問)
日本の色絵磁器は中国の技術を導入し、1647年頃に佐賀県有田で に赤が使われているか否かは明らかでない。しかしこの宇津木遺
始まった。1660年代にかけての初期の色絵は従来から古九谷様式 跡は豊臣秀吉の五大老の一人備前岡山城主宇喜多秀家が、1600年
とも呼ばれている。この主要な窯と考えられてきた有田町山辺田窯 関ヶ原の戦いに敗れ、徳川家康により八丈島に流罪となった。彼は
の隣接地の発掘調査を2013年に実施した結果、500点以上の大皿・ 1655年にここでなくなるが、彼の存命中は親類であった加賀藩前
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中皿などの色絵の破片が出土した。 ここで1640年代から1650年代 田家が仕送りしたために中国磁器と共に優れた初期伊万里が出土
の染付磁器とともに多くの色絵片が出土し、色絵製作地と推定され し、死去に近いものとしてこの色絵大皿が出土した。この事からこ
た。そして1647~1650年頃と1650年代の2つの時期に比定できる色 の色絵大皿の下限年代が1655年と推定できる。
絵の実態が明らかになった。つまり、1647年~1650年頃の色絵の始
見事な松図を表したこの大皿は、有田の山辺田窯で青手様式大皿
まりの時期には景徳鎮の技術を導入し、染付を施したシャープな作
などと共に作られた作品であり、さらに製作年代も1650年代と言え
りの素地を用いた優れた色絵が作られた。それが1650年代に入ると
る貴重な伝世資料である。
1650年代前半とみられる色絵は基本的に染付圏線や文様の入らな
い粗放な白磁素地を用い、焼成状態も悪いものが多く、この素地の
汚さを隠すかのように濃い色絵具で器面を塗り埋めた青手様式が
注1 大橋康二・村上伸之『山辺田遺跡発掘調査概要報告書』2014
始まる。それと同様に、粗放な白磁素地に濃い色絵具で文様を施し
年3月、『日本の色絵磁器技術始まりの美術史的・考古学的研
た五彩手の大皿・中皿が山辺田遺跡で出土している。青手様式は
究』調査団、大橋康二「肥前の色絵磁器の始まり」『江戸前
黒線を使って文様を描いた上に、赤以外の緑・黄・紫・青で塗り埋
期における日本磁器の始まりと色絵の始まり』2015、近世陶
めたものである。この1650年代前半頃の色絵大皿は、海外でもイン
磁研究会
ドネシアで発見されることが早くから紹介され、ジャカルタ国立博
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物館所蔵品 がある。さらに西ジャワのバンテン王宮遺跡出土品に 注2 佐賀県立九州陶磁文化館『海を渡った肥前のやきもの
この時期の五彩手の大皿 が発見され、考古学的にも当時の輸出が 展』1990の図1など。
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裏付けられた。
注3 大橋康二・坂井隆「インドネシア・バンテン遺跡出土の陶磁
本作品は、赤を使っていることが特徴である。赤の圏線で内側の側 器」『国立歴史民俗博物館研究報告第82集』1999の図版7-8
面を区画し、見込には松や草を赤・緑・紫・青・黒線で描く。側面
注4 佐賀県立九州陶磁文化館・石川県立美術館『伊万里・古九谷
には牡丹花を赤で表し、唐草を緑・黄・黒線で描く。このような赤
名品展』1987の図78
の使い方と紫も用いた色絵は山辺田遺跡の終末期の廃棄土壙から
出土した中皿にみられる。裏面の牡丹唐草文も山辺田遺跡出土の 注5 国学院大学『東京都八丈町鳥打遺跡・宇津木遺跡調査報告
1650年代の菊文大皿(五彩手だが赤は使っていない)にみられる。 書』1994の第54図
この類例は石川県立美術館所蔵品 があり、出土例は前述のバンテ
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* 本作品は今泉元佑『初期有田と古九谷』1974に所載(図76)され
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ン王宮遺跡出土品や東京八丈島宇津木遺跡の色絵大皿 がある。
たものとみられる。当時、イギリスにあったことが記される。
宇津木遺跡の大皿は色絵具がすべて剥落し痕跡のみであり、内面
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