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指導老師
錢婉瑜
ℷ濱中華學院120校刊 p32& p33
杜國輝教育基金會的期望 杜國輝教育基金會 くの華僑の先陣達、先生達、校友生達の協力と努力の賜物だと思います。それ故、學校に対する先生達、學
理事長 雷兆元 生達、校友生達の思い入れは、どこの學校よりも熱い思いと親密で強い繫がりで繫がっています。
ୈ 於清光緒二十三年(公元����年)不畏艱難首創本僑校,在各位前人師長為教育所做的犧牲與奉 が行われました。近々では1945年の横濱大空襲で校舎は全焼し、終戦後間もなく、経済的・物資的に不足し
現在、母校再建の計画があり、2021年4月開校に向かって動いています。此れまでに何回かの校舎建て替え
欣逢橫浜中華學院百二十週年校慶紀念,本人能在此致祝詞深感榮幸。緬懷 國父孫中山先生
ている中でも教育の必要性を感じ、知っていた華僑先進は、自分達も苦しい時に。華僑の力を集め木造の校
獻,以及僑界同胞的鼎立支持下,才能奠定了現在學校的根基。戦後横浜僑社因受政治影響,學校
舎を再建し華僑の子弟達の教育が再開されました、時を経て、昭和42年(1968年)鉄筋コンクリートの校舎
及華僑總會等形成分裂之中,第四任校長杜國輝先生(本校第四屆畢業生校友)於����年自東海
Ұ
を建てる時に、中共系は、学校の再建を阻止しようとし、ありとあらゆる妨害活動をしてきました。再建中
大學原子力工學科以優秀成績畢業後回母校任教,左右兩僑校在長期鬥爭之局面之下,他以宣揚
れる様に学生達と先生達ががんばっていた時もありました。更に彼らは妨害活動として裁判所に再建の禁止
ষ 民族文化之伝統為宗旨,堅苦奮鬥,忠貞不二,護校保僑,克服了千辛萬苦,終於固守伝承中華文 は校庭にプレハブの教室を立てて授業をし、夜はそのプレハブに寝泊りをし中共系が何してきても學校を守
化之重鎮。
の訴え迄起こしました。しかし、裁判所は其の訴え却下し、受け付けませんでした。しかし、彼らは、納得
杜國輝先生在校先後三十八年如一日,他運営大加改革校友會,精研中華伝統文化的舞龍舞
せず、再建した校舎の道路側のシャッターにコールタールで落書きし、妨害行動を続けた。入居予定をして
獅,與辦中國南獅子舞競演大會,獲得大大的成功。����年創辦「龍獅舞研究」刊物,發揚民族伝統
之優良文化,獅子舞現成為橫浜名物之一。學校方面他樹立了教育理念。就是要培養持有中華靈
れ故に、私たち華僑並びに校友生達の学校に対する思いはどの学校の関係者よりも深い思いがあるので
魂、放眼世界的人。其意義是培養學有中華文化的,靈活運用中、日、英三種語言而活躍於世界各 いたテナントも撤退する事になり、大変な時代もありましたが、皆の力で学校を守り抜いてきました。(そ
地的國際性華僑華人。����年杜國輝校長卻因積労成疾而病逝,他吩咐將他自己的退休金全額供 す。)
序 各界賀詞 出為華僑子女培養人材之用、特設立「杜國輝教育基會」。日本各地華僑聞此消息,動心賛同而自 また、中華民國と日本が断交した時には、政治的一番苦しい時期でした。中共系華僑は母校を乗っ取ろう
動自発的捐款到本基金會。杜國輝教育基金會,每年以一百萬日元的預算,為本校増添助力又為 して、色々な行動に打ってきました。
嘉勵回國交換留學之學生頌発獎助學金等,実現杜國輝先生的教育理念而活動中。現今本校校舍 断交当日の夜、學校が危ないと嘘の電話で元校長を呼び出し、瀕死の重傷を負わす様な暴行事件を犯した
逐漸老舊,因此目前正在計畫改建新校舎,本「杜國輝教育基金會」當然盡我所能出錢出力的全力 りしました。しかし、こんな暴力的な行動を起こそうが、私達は一心同体で彼らに負けずに立ち向かい母校
支持,也將繼續培養持有中華靈魂、放眼世界的人。 を守りぬきました。
海外に住んでいる私達華僑にとって、祖国とは、民族とは、言葉とは、知らない事が多くあります。私の
前橫濱華僑總會會長 場合は、祖父が中國の廣東省から、日本に来た、三代目の華僑です。それ故に、中國の風習や民族としての
横濱中華學院創立120周年に寄せて 橫濱中華學院第12期卒業生 羅鴻健
誇りを幼少時代には感じる事ができませんでした。私が中国人として意識や誇りを持てる様になったのは、
母校横濱中華學院創立120周年おめでとうがざいます。 中華学校入学し、授業を通して中華民族の事(歴史・先人達の考え方)を学ぶ事が出来る様になってからだ
中華民國建國の父である 孫文先生が創立した我が母校は、世界で唯一無二の學校であり と思っています、母校の中華学校があったからこそだと思います。横濱の華僑が他の華僑と違うのは、その
ます。創立120周年とは、中華民國の歴史よりも、我が校の校史のほうが長いと言う事にに せいだと思います。私達の中華学院は語学だけを教える所ではなく、中華民族としての意識、習慣を教える
なります。 孫文が我が母校を創立した時は、革命運動の真っ只中の厳しい時期であったは 事ができる場所であり、私達の心の砦です、私はこの学校で学ぶ事ができた事を心から感謝しています。
ずです、この時期に國父 孫文は何故學校を作ろうとしたのでしょうか?國を作るのには、 時が過ぎる様に、學校のあり方も変遷しています。昔の学校の良さがなくなったと言う校友生もいます、
國を続ける為には、人が必要であった、それも、教育を受けた優秀な人が、それを、体現す 例えば:昔は、放課後の校庭はでは、上級生と下級生が入り混じって、日が暮れるまで遊んでいる情景があ
る為に學校が必要だった、その第一歩を、國父 孫文がこの横濱を選らび、第一号の學校 りましが、現在はそのような事はないと言う事、それは、時代の要求が學校のあり方変えていく事を求め
が、我が母校であった。(校名は:中西学校~同文学校~公立横濱中華學校~横濱中華小学 て、學校もその要求の全てではないが、応えなければならない義務があり仕方がない事だと思います。しか
校~横濱中華學校~横濱中華中學~横濱中華學院) し、一方で今の学校の学力はと言うと、私達の時と比べ、今の学校の学力は比べものにならない程素晴らし
母校が歩んで来た道は山あり、谷あり更に凸凹道の平坦な道ではありませんでした。國の い物です。例えば:中國語のスピーチコンテストを目を閉じて聞いていると、國内に居る様な錯覚をしてし
歴史と同じ様激しく、厳しい激動の時代の連続であリました。 まう程です。
1949年に内戦が勃発し、國が分裂し、學校も分裂しました。左派系の先生達は自分達で校 しかし、時間が過ぎても、変わらない事もあります。それは、昔から学校全体が家族と言う様な雰囲気で
長を選ぼとしたが、董事会は校長の任命権は、董事會にあるとし、彼ろの要求を拒否しまし す。上級生はお兄さん、お姉さんであり、下級生は弟であり、妹でと言うことです。例えば、運動會では、
た。彼らは、董事會の選んだ数名の校長をありとあらゆる方法で追い出す乱暴な行動をし、 上級生が下級生の面倒見ながら、自分達の競技もすると言う様に大変なものです。その様子を見ていると兄
董事會と対立しました、董事會は左派系の先生達を任期満了を待って、再契約をせず、新任 姉が弟妹に寄り添って何かを教えているかの様にも見えます。
の校長と先生達を任命する事としました。母校から離れて行った左派系の先生達と一緒につ もう一つ変わらない事は、時代がどんなに変わっても我が母校は華僑の子弟の為に・校友生の子供達の為に
いていった學生達は學校から追い出されたとデマを流し、自分達が正当であると主張し、學 存在すると言う事です。國父 孫文は「華僑は革命の母なり」と言う言葉を残しています、言い換えるなら
校は自分達の物だと裁判所に訴えたり、新任先生達の立ち入り禁止の訴えを出したりと言っ ば、中華民國は華僑の協力があって建國できたと言ってもいいと私は思っています。その華僑の第一号の學
た妨害行動をしましたが、裁判所は彼らの訴え退け、敗訴しました。彼らはすぐに、學校か 校が我が母校「横濱中華學院」で有る事実を私は誇りに思っています。
ら追い出されたと言うが、自分達から出ていたのであって追い出した事実はなく、当時の董 最後に、校舎が再建され、新校舎で此れからの後輩達が、世界で唯一の國父孫文紀念校の誇りを忘れず、
事會は、一回も左派系の華僑や先生達に対して出ていけと言った事はありません。この時 これからの母校の歴史を作って行ってくれる事を信じています。
期、左派系は寺子屋式の授業を開始し、早朝の体操は母校の運動場で行っていましたが、董
事会並びに學校側は彼らを追い出す様な行動はしていません、この状況を見ても判る様に、
追い出したのではない事は判ると思います。こんな事態でも學校を守り、発展出来たのは多
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