Page 39 - 式文 2026
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   <話しあってみましょう> 知恵と安らぎの結びつきは、「わたしの軛を負って、わたしから学びなさ
い」というイエスの招きについて、どのような点であなたの理解を促し、 深めますか。
III.安らぎのとらえなおし ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きなが
ら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。な ぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは 言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったと きに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であ ったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならな い供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更 に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにある のではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
(マルコによる福音書 2 章 23 節~28 節)
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹にな ったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、 イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないこ とをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供 の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家 に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供え のパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破 っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言ってお くが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐 れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あ なたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の 主なのである。」
(マタイによる福音書 12 章 1 節~8 節)
これらの物語は、安らぎについて改めて解釈することを示しています。 イエスは、神の安らぎを、厳格な宗教的慣習ではなく、人間が必要とする 真の安らぎへと招いておられます。これらの物語は 「軽い軛」を理解する 助けとなり、イエスが示される安らぎは束縛するものではなく、むしろ解 放するものであることを示唆しています。
<話しあってみましょう>
 「安息日は人のためにつくられたのであり、人が安息日のためにつくら
れたのではありません」というイエスの言葉は、イエスの軛が「負いやす
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