Page 29 - Sotheby's New York Linyushanren Part IV Auction September 13, 2018
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日本における磁州窯陶磁の受容


                      久世 雅彦
                      中国美術部門 アソシエイト





                      北宋第8代皇帝徽宗の治世下、大観二年(1108)。その年の秋に発生し                  愛好家の間で非常に話題となり、会期中に秩父宮、高松宮両殿下も訪れ
                      た黄河の氾濫による泥流は、現在の河北省南部に位置する鉅鹿の町を埋                    るなど成功裏に終了した。  それまで中国陶磁器といえば、お茶道具と
                      没させた。それから800年以上の歳月が経ち、20世紀初頭のある年、                   して用いられてきた唐物の他に考えの及ばなかった人々にとって、この
                      今度は旱魃により水を求めた地元の人々が井戸を掘ったことがきっかけ                    展覧会は非常に大きなインパクトを与えたという。その図録には、反町
                      でその町は再び姿を現した。そこで水が出たかどうかは定かではない                     茂作、倉橋藤治郎、横河民輔、細川護立などの有力なコレクター、横山
                      が、北京の古美術商をはじめ、その顧客である知識人や外国の好事家達                    大観、廣島晃甫、安田靱彦などの画家の愛蔵品が掲載されているが、驚
                      の好奇心を激しく揺さぶる、夥しい数の白化粧がけの陶器が出た。                      くべき事に、ここに掲載されている宋磁の内全59点中47点が磁州窯系
                                                                          の作品である。  この事実だけとってみても磁州窯のプレゼンスが日本
                      この1920年頃の鉅鹿遺跡の発見に伴う、磁州窯系を中心とした出土陶                   人収集家の中でどれだけ大きなものであったかが窺える。
                      は、当時の日本の好事家達の間にセンセーションを巻き起こし、現在に
                      至るまで磁州窯製の白無地の陶器はしばしば「鉅鹿」の名で呼ばれ親し                    実業家で古陶磁愛好家の倉橋藤治郎(1887-1946)は、1932年の著
                      まれている。                                              作、「陶器図録 鉅鹿出土陶」の中で、鉅鹿出土の陶器は、墳墓や窯跡で
                                                                          はなく、記録上確認できる大洪水によって水没した城邑の中で、当時の
                      中国大陸における陶磁器製作の長い歴史と、その中で生み出された膨大                    人々が生活する際使用していたまさにその現場から見出されたことにか
                      な種類の様式により、収集される作品のアソートメントもその受け手の                    けがえのない特色があると述べている。また、鉅鹿の町が土中に埋まっ
                      好みを反映して地域ごとにある程度異なってくる。日本ではその地理的                    た時期が、日本人の認識において中国の歴史上最も文化藝術が洗練され
                      文化的近接性から古来数多くの中国陶磁器が将来されてきており、砧青                    た北宋の徽宗皇帝の治世下であった点も強調している。  徽宗皇帝といえ
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                      磁、建窯の天目碗、金襴手、古染付などは日本において、特に茶道を通                    ば、彼の手によると伝えられる絵画が、室町幕府八代将軍足利義政が収
                      して古くから珍重されてきた。多彩な様式を持つ磁州窯の作品群も日本                    集したコレクション、「東山御物」にも数点含まれており、現在それら
                      の好事家を魅了してきたジャンルの一つであるが、それが日本で知られ                    は国宝として指定されている。倉橋のこれらの言説は、磁州窯磁が日本
                      るようになったのは比較的近年、前述の20世紀初頭の鉅鹿遺跡の発見以                   において非常に親しまれている理由を端的に示しているようだ。茶道に
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                      後のことである。それまで、室町から明治にかけて日本における中国陶                    おいて大名物と評価される井戸茶碗が、もともと朝鮮半島で作られた雑
                      磁器の受容は、茶陶というコンテキストから離れ難く、中国製の茶器と                    器の類であったということからもわかるように、匿名性、日常性、無作
                      いえば“唐物”という半ば記号化された形で呼称されるのが常であった。                   為、質素といった要素は日本人にとって美の基準となりうる。磁州窯の
                      実際、日本国内の出土状況から、磁州窯系陶器は、鳥羽離宮跡などの出                    作品は、その多くが日常の用に供する民器であったことからしても、こ
                      土陶片からわかるように前近代から日本列島にもたらされていたようで                    れらの要素を多分にふくんでいるように思われる。 また、日本の民藝運
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                      ある。  しかし、その数は非常に少なく、そこに住む人々のそれに対す                   動の旗手、柳宗悦は日常品に潜む美を以下のように表現する。
                      る認識は現代とは些か異なるものだった。中国の華北で焼かれた磁州窯
                      系の白地鉄絵陶器が朝鮮半島の墳墓から出土するためか、またはそれが                    「用が生命であるため、用を果たす時、器は一層美しくなってきます。
                      朝鮮半島経由で日本に渡来するためか、人々はそれらを絵高麗と呼び、                    作り立ての器より、使い古したものはさらに美しいではありませんか。
                      朝鮮半島で製作されたものとの認識であった。実際、尾形乾山作の鉄                     -中略― 飾って眺めるのは、長い間の彼らの労役を称えるためです。
                      絵牡丹菊文大鉢(宝永三年銘1706)は元の磁州窯作品の写しのようだ                   その美には奉仕の歴史が読まれるのです。なすべき仕事をなしたその功
                      が、乾山自身「摸朝鮮国之珍器造之」と記している。また、茶陶の世界                    が積まれているのです。私たちがその美を語り合うのは、よく用いられ
                      では、明の16-17世紀の磁州窯で作られた鉄彩、白泥の梅鉢文茶碗も絵                  たその生涯の美を語っているのです。」        7
                      高麗として知られてきた。     2
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                      磁州窯陶器はおろか、”宋磁”という概念さえも日本で一般に認識された                   掘を契機として、1920年代の日本の古美術市場に鮮烈で新奇な印象を
                      のは鉅鹿遺跡が発見された後で、壺中居の廣田不孤斎こと廣田松繁社長                    もって登場した。それは一時的な熱狂に終わることなく、その文芸全盛
                      が設立に関わった好事家達のコミュニティー、陶話会による「宋瓷」の                    時代への憧憬と、そこで実際に使用された器に宿る800年前の民衆の心
                      展観と、昭和4年(1929)に発行されたその展観図録である「宋瓷 陶                  を読み取った好事家達によって現在まで伝えられてきた。日本において
                      話會宋瓷展觀圖譜」(fg1,2)の出版がその契機となったという。 日本橋                宋時代の陶磁器を中心に収集した臨宇山人コレクションの中に、これだ
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                      の三越階上で45日間に渡って行われたこの展観会は、 その当時発掘され                  け多くの磁州窯作品が含まれていることは、ある種必然であったと言っ
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                      大量に国内に入ってきていた宋磁の作品の中でも優品が展示され、陶磁                    てよいだろう。









                      1  長谷部楽爾 今井敦 「中国の陶磁第十二巻 日本出土の中国陶磁」1995, 平凡社, 東京, p. 108
                      2  矢部良明他 「日本陶磁大辞典」2002, 角川書店. 東京, p. 166
                      3  久志卓眞 「わが国における宋磁の蒐集, 世界陶磁全集10」, 1954, ㈱河出書房, 東京, p. 271
                      4  廣田不孤斎 「歩いた道」1952, 求龍堂, 東京, p. 219-218
                      5  陶話會 「陶話會宋瓷展觀圖譜」1929, 大塚巧藝社, 東京
                      6  倉橋藤治郎 「陶器図録 鉅鹿出土陶」, 1932, 工政會出版部, 東京, p. 3
                      7  柳宗悦「民藝とは何か」, 1941, 昭和書房,p. 70 (2006, 講談社学術文庫版)
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