Page 23 - 00_片山鉄建様_表紙
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1                                       (大正 8)年                        (昭和 20)年                                        定爾氏が東京府南葛飾郡 (現・江東区) に設立した東京鍍鈑製造所は、
               Chapter 1
     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
             第  章                            1919                          1945
                                                                                                                                         1912年、東京でも亜鉛鉄板メーカーが産声を上げていた。山内
                                                                                                                                                                                      ト タン
                     「
                     栄
                     山
                     片
                                                                                                                                       人力を中心にした設備ながら高品質な「スター印」トタン板を生産し
                                                                                                                                       ていた。これが後に「赤鳩印」へと発展していく。
                                             亜鉛鉄板市場の形成
                                                                                                                                         国産の亜鉛鉄板といっても、その原料となる薄鋼板・亜鉛・硫酸
                                               明治から大正にかけての日本は欧米列強に追いつくため、さまざ                                                           などはすべて輸入に頼っており、潤沢な資金がなければ事業を継続
                                             まな分野において近代化が進められていた。鉄をめぐる新素材もそ                                                            するのは困難であった。そこで、山内氏は取引先の鉄鋼問屋に出資
                                                                                                   ブ リキ                                を求め、 77名の協力により1913年6月14日に東京亜鉛鍍金株式会
                                             の一つであり、洋風建築などを通して亜鉛鉄板 (トタン板) や錻力な
                     一                       どを知った日本は、それらを国内でも気軽に調達できるようにしよ                                                            社へと改組、社長には森岡平右衛門氏が就任した。森岡平右衛門商                                                                      CHRONICLE
                     生 の 誕 商 店 」             うと格闘していた。                                                                                 店は戦後に至るまで森岡商店、森岡興業株式会社として赤鳩印のト

     CHRONICLE
                                               薄鋼板の上にメッキを施した亜鉛は酸化被膜を形成し、傷ができ                                                           タン板販売を一手に引き受けることになる。                                                                                Ⅰ

                                                                                                                                                                                                                                            片山栄 と 一 時代 の そ
                                             た場合は鉄より先に腐食されることで鉄そのものを守る。当社とゆ
                                             かりの深い亜鉛鉄板はこの性質を利用して開発されたもので、水に                                                            片山栄一の大志
                                             強く錆びにくいことを最大の特長としていた。
                                               官営八幡製鉄所が亜鉛鉄板の生産を開始したのは1906 (明治39)                                                         当社の創業者である片山栄一は1897 (明治30) 年2月9日、大阪に

                                             年であったが、当時の技術は必ずしも満足したものとはいえず、供                                                            生まれた。広島県の尾道出身の父・栄吉は1865 (慶応元) 年生まれで、                                                                Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 日 ら へ 本全国 か
                                             給を輸入品に頼る状況がしばらく続いた。そして、旺盛な新素材へ                                                            栄一は父が32歳の頃にもうけた一人息子である。栄吉は40代後半
                                             の需要は民間メーカーの参入を促した。                                                                        より視力を失い、手を引かれなければ出歩けなくなった。また、母・
                                                                                                      メッキ
                                               佐渡島伊兵衛商店が地金問屋を営む川合庄助氏とともに亜鉛 鍍                                                           順は早くに亡くなったというから、栄一が困難な幼少時代を送った
                                             株式会社 (後の大阪鉄板製造株式会社) を設立し、大阪・桜島で亜鉛鉄                                                        ことは想像に難くない。
                                             板の生産に着手したのは1911年5月のことであった。亜鉛鍍は試                                                             貧しい家庭の子どもは高等小学校を終えると就職するのが普通で                                                                     Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 精神 の
                                             行錯誤の末に独自で技術を確立し「月星」の商標で発売したが、資金                                                           あった時代に、利発な栄一は市立大阪高等商業学校 (後の天王寺商業
                                             が尽き、翌1912 (大正元) 年には岩井商店の出資を受けて仕入れ及び                                                       学校) に進学し、国内有数の商社であった長瀬商店 (現・長瀬産業株式
                                             販売に関する権利を委ねることとなった。                                                                       会社) に就職した。そして亜鉛鉄板に興味を抱いた。

                                               その後、佐渡島伊兵衛商店から独立して佐渡島西店を起こした佐                                                             米国の港で亜鉛鉄板が船積みされると市況が動く。そのため、早
                                             渡島英祿氏は、田中徳松氏らと日本亜鉛鍍株式会社 (後の日亜製鋼)                                                          く情報を掴めばそれだけで大儲けできたが、不運な場合は被る損害                                                                      Ⅳ
                                                                                                                                                                                                      市立大阪高等商業学校(出典:『大阪府写真帖』
                                             の設立に参画した。その前身は、田中氏が1908年に家族と立ち上                                                           も大きかった。亜鉛鉄板は商人としての敏捷さが試される、厳しい                                 1914 年、国立国会図書館所蔵)                     近年 の 片山鉄建
                                             げた小さなメッキ工場であったとされる。だが、諸事情により佐渡                                                            ながらも魅力的な商材であり、その売買はまた世界とつながりを持

                                             島氏自身は日本亜鉛鍍からも手を引くことになる。                                                                   つことのできる大きなビジネスであった。


                                                                                                                                                         いたちぼり
                                                                                                                                       急速に発展した立売堀・新町
                                                                                                                                                                                                                                           第
                                                                                                                                         1914 (大正3) 年、オーストリア皇太子の暗殺により欧米諸国は第                                                                1
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                                                                                                                       一次世界大戦へと足を踏み入れ、日英同盟を結んでいた日本も参戦                                                                      「
                                                                                                                                       する。戦争による特需は日露戦争後に起こった日本経済の低迷を打                                                                      「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                       開するとともに、欧米列強の力が手薄になったアジア諸国に日本企                                                                      「
                                                                                                                                                                                                                                           「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                       業が進出する契機も伴った。朝鮮、満州への渡航が自由になったの                                                                      「
                                                                                                                                                                                                                                           「
           大阪市の煙筒と煤煙(出典:『大阪府写真帖』1914 年、国立国会図書館所蔵)                                                                                      もこの時期で、同時に地方との取引も活発になり、鉄鋼問屋の商売                                                                      「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「



        042  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  043
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