Page 25 - 00_片山鉄建様_表紙
P. 25
1919 1945
沿革編 沿革編
恐慌の時代 立売堀南通5丁目には、川に面した倉庫があった。社員は厚子 (前
掛け) ・角帯に下駄履きといった服装で、倉庫作業の担当員は “ 仲間 ”
栄一は1924 (大正13) 年に林八重と結婚している。八重は栄一よ と呼ばれた。
り4歳下で、京都・三条通に1851 (嘉永4) 年から続く販売店「林七商 栄一は恰幅がよく、正直で優しい人だった。ただ仕事には厳しく、
店」の次女であった。そして1925年9月15日に第一子として長男 社員が間違ったこと、筋の通らないことをした場合には容赦なく叱
の栄三をもうけた。長男であるのに栄三と名付けたのは、祖父の栄 責した。
吉、そして栄一の後を継ぐ、「栄」の字のつく3代目という意味を込
めてのことであった。 キング印・羽矢印の販売 CHRONICLE
同年4月には東成郡と西成郡の44カ町村が編入され、大阪市は面
積181.68㎢、人口211万4,804人となり、東京市を抜いて全国第1 昭和初期の大阪には、大阪鉄板製造 (月星印) 、中山製鋼所 (三星印) 、
CHRONICLE
位、世界第6位の大都市となった。大阪は繊維産業を中心に繁栄し、 日本亜鉛鍍 (太陽印) 、富永鋼業 (雁印) 、丸十亜鉛鍍金 ( 印) 、東京亜 Ⅰ
片山栄 時代 と 一 の そ
東洋のマンチェスターと呼ばれた時代を迎えたが、昭和に入ると、 鉛鍍金 (赤鳩印) といったトタン板メーカーが、それぞれメッキ釜1、
1927 (昭和2) 年の金融恐慌、 1929年の世界恐慌に始まる1930年の 2連 (注) を有していた。
心斎橋筋大丸を望む(出典:『明治大正昭和の大
阪写真集』1929 年、大阪市立中央図書館所蔵) 昭和恐慌に翻弄され、当社の月次決算も赤字が続いた。 さらに大正区鶴町には、問屋からの寄託加工を行うメッキ工場を
この時代になると、当社は中堅問屋でありながら鉄鋼商社大手5 持つ合資会社大阪トタン板製造所 (現・株式会社淀川製鋼所。以下、大
社と言われた旧三井物産、旧三菱商事、岩井商店 (後の岩井産業) 、安 阪トタン板と表記) があった。大阪トタン板には、同時に出資してい Ⅱ
(注) 大阪 へ か 日 ら 本全国
宅商会 (後の安宅産業) 、日商と取引し、薄板や線材を買うようになっ た佐渡島西店など5社が賃加工を依頼し、完成した製品にそれぞれ メッキ設備は、「台」ではなく「連」と数えた。
ていた。 E.K
社員は4名に増え、畳敷きの店に机が4、 5脚、電話1本が引かれて
COLUMN- 1 国内における薄板自給体制の確立
いた。店は栄一の自宅を兼ねていたから、社員がその家族や奉公人
と接する機会も多く、まだ3、 4歳だった長男・栄三の子守りをして Ⅲ
すでに述べたように、黎明期の亜鉛鉄板 1924年6月に年産能力2万 t の薄鋼板用圧 片山鉄建 精神 の
心斎橋の大丸百貨店に通い、エレベーターで4、 5回昇り降りを繰り
メーカーは原料を輸入品に頼っており、安定 延設備ならびに亜鉛メッキ設備を神戸・葺合
返してからチンチン電車を見物して帰るのが、当時入社したばかり 供給が大きな課題となっていた。 工場に設置、その後も生産高を増やしていっ
だった田端新蔵 (戦後、栄鋼業社長に就任) の日課であったという。目 1916(大正5)年、亜鉛鍍は大阪鉄板製造株 た。
の不自由な栄吉について、その手を引き、外出することもあったよ 式会社(現・日鉄日新製鋼株式会社)と社名を 昭和初期の恐慌時には原料価格が安定せ
うだ。 変更した。それとともに、薄鋼板の自給に取 ず、東京亜鉛鍍金の操業が危ぶまれる事態も Ⅳ
り組むべく山口県徳山市に工場を建設し、神 発生した。一方、関西の亜鉛鉄板メーカーは 近年 片山鉄建 の
戸港や門司港に届いた原材料を工場で薄鋼板 海外に活路を見出すべく輸出に本腰を入れ、
に加工して東京・大阪・神戸などに送り出し その輸出額が急増したため、品質管理や原料
た。この徳山工場が1928(昭和3)年に独立 の共同購入を行うべく、1928年5月に「日本
し、徳山鉄板株式会社となる。 輸出亜鉛鉄板工業組合」を結成した。1933年
官営八幡製鉄所では第3期計画が進められ、 には関東の7社が組合に加わり、全国組織と
1922年に国内の生産設備能力が181万 t に なった。 第 1
達したが、棒鋼・平鋼・厚板・中径鋼管など 同年8月、川崎造船所は市況の安定を図る 章
の生産能力が過剰となる一方で、薄鋼板など ため、生産量の約半数を日本亜鉛鍍と東京亜 「
「
の生産は遅々として進まなかった。 鉛鍍金に供給することを決定。国内の自給体 「
「
関東大震災後に需要が急増すると、株式会 制は、この時期におおむね確立した。 「 「 「
「
社川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)が 「
「
「
赤鳩印の看板 「
「
046 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 047