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1919 1945

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             恐慌の時代                                                                                       立売堀南通5丁目には、川に面した倉庫があった。社員は厚子 (前
                                                                                                                                       掛け) ・角帯に下駄履きといった服装で、倉庫作業の担当員は “ 仲間 ”

                                               栄一は1924 (大正13) 年に林八重と結婚している。八重は栄一よ                                                      と呼ばれた。
                                             り4歳下で、京都・三条通に1851 (嘉永4) 年から続く販売店「林七商                                                        栄一は恰幅がよく、正直で優しい人だった。ただ仕事には厳しく、

                                             店」の次女であった。そして1925年9月15日に第一子として長男                                                          社員が間違ったこと、筋の通らないことをした場合には容赦なく叱
                                             の栄三をもうけた。長男であるのに栄三と名付けたのは、祖父の栄                                                            責した。
                                             吉、そして栄一の後を継ぐ、「栄」の字のつく3代目という意味を込
                                             めてのことであった。                                                                                キング印・羽矢印の販売                                                                                         CHRONICLE

                                               同年4月には東成郡と西成郡の44カ町村が編入され、大阪市は面
                                             積181.68㎢、人口211万4,804人となり、東京市を抜いて全国第1                                                        昭和初期の大阪には、大阪鉄板製造 (月星印) 、中山製鋼所 (三星印) 、
     CHRONICLE
                                             位、世界第6位の大都市となった。大阪は繊維産業を中心に繁栄し、                                                           日本亜鉛鍍 (太陽印) 、富永鋼業 (雁印) 、丸十亜鉛鍍金 (                  印) 、東京亜                                           Ⅰ
                                                                                                                                                                                                                                            片山栄 時代 と 一 の そ
                                             東洋のマンチェスターと呼ばれた時代を迎えたが、昭和に入ると、                                                            鉛鍍金 (赤鳩印) といったトタン板メーカーが、それぞれメッキ釜1、
                                             1927 (昭和2) 年の金融恐慌、 1929年の世界恐慌に始まる1930年の                                                   2連 (注) を有していた。
           心斎橋筋大丸を望む(出典:『明治大正昭和の大
           阪写真集』1929 年、大阪市立中央図書館所蔵)          昭和恐慌に翻弄され、当社の月次決算も赤字が続いた。                                                                   さらに大正区鶴町には、問屋からの寄託加工を行うメッキ工場を
                                               この時代になると、当社は中堅問屋でありながら鉄鋼商社大手5                                                           持つ合資会社大阪トタン板製造所 (現・株式会社淀川製鋼所。以下、大

                                             社と言われた旧三井物産、旧三菱商事、岩井商店 (後の岩井産業) 、安                                                        阪トタン板と表記) があった。大阪トタン板には、同時に出資してい                                                                    Ⅱ
                                                                                                                                                                                                     (注)                                    大阪 へ か 日 ら 本全国
                                             宅商会 (後の安宅産業) 、日商と取引し、薄板や線材を買うようになっ                                                        た佐渡島西店など5社が賃加工を依頼し、完成した製品にそれぞれ                                 メッキ設備は、「台」ではなく「連」と数えた。
                                             ていた。                                                                                                                                                                             E.K

                                               社員は4名に増え、畳敷きの店に机が4、 5脚、電話1本が引かれて
                                                                                                                                         COLUMN-     1     国内における薄板自給体制の確立
                                             いた。店は栄一の自宅を兼ねていたから、社員がその家族や奉公人
                                             と接する機会も多く、まだ3、 4歳だった長男・栄三の子守りをして                                                                                                                                                              Ⅲ
                                                                                                                                               すでに述べたように、黎明期の亜鉛鉄板                        1924年6月に年産能力2万 t の薄鋼板用圧                            片山鉄建 精神 の
                                             心斎橋の大丸百貨店に通い、エレベーターで4、 5回昇り降りを繰り
                                                                                                                                              メーカーは原料を輸入品に頼っており、安定                       延設備ならびに亜鉛メッキ設備を神戸・葺合
                                             返してからチンチン電車を見物して帰るのが、当時入社したばかり                                                                   供給が大きな課題となっていた。                            工場に設置、その後も生産高を増やしていっ
                                             だった田端新蔵 (戦後、栄鋼業社長に就任) の日課であったという。目                                                                1916(大正5)年、亜鉛鍍は大阪鉄板製造株                    た。

                                             の不自由な栄吉について、その手を引き、外出することもあったよ                                                                   式会社(現・日鉄日新製鋼株式会社)と社名を                        昭和初期の恐慌時には原料価格が安定せ
                                             うだ。                                                                                              変更した。それとともに、薄鋼板の自給に取                       ず、東京亜鉛鍍金の操業が危ぶまれる事態も                              Ⅳ
                                                                                                                                              り組むべく山口県徳山市に工場を建設し、神                       発生した。一方、関西の亜鉛鉄板メーカーは                               近年 片山鉄建 の
                                                                                                                                              戸港や門司港に届いた原材料を工場で薄鋼板                       海外に活路を見出すべく輸出に本腰を入れ、
                                                                                                                                              に加工して東京・大阪・神戸などに送り出し                       その輸出額が急増したため、品質管理や原料
                                                                                                                                              た。この徳山工場が1928(昭和3)年に独立                     の共同購入を行うべく、1928年5月に「日本
                                                                                                                                              し、徳山鉄板株式会社となる。                             輸出亜鉛鉄板工業組合」を結成した。1933年

                                                                                                                                               官営八幡製鉄所では第3期計画が進められ、                      には関東の7社が組合に加わり、全国組織と
                                                                                                                                              1922年に国内の生産設備能力が181万 t に                   なった。                                              第 1
                                                                                                                                              達したが、棒鋼・平鋼・厚板・中径鋼管など                         同年8月、川崎造船所は市況の安定を図る                             章
                                                                                                                                              の生産能力が過剰となる一方で、薄鋼板など                       ため、生産量の約半数を日本亜鉛鍍と東京亜                              「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                              の生産は遅々として進まなかった。                           鉛鍍金に供給することを決定。国内の自給体                              「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                               関東大震災後に需要が急増すると、株式会                       制は、この時期におおむね確立した。                                 「 「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                              社川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)が                                                                         「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                             赤鳩印の看板                                                                                                                                                                                        「
                                                                                                                                                                                                                                           「


        046  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  047
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