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1919 1945
沿革編 沿革編
の幅も大きく広がっていった。 「鳥には塒 (ねぐら) 、蟲 (むし) には穴。浅草の観音堂に逃げ延びた
大戦勃発の翌1915年には、欧州諸国が鉄の輸出禁止に踏み切っ 人にも、親戚知己に身を寄せた人にも、シェルターがなければなら
た。当時の日本は鉄の自給率が低かったため品不足により価格が急 ぬ。とりあえず、焼けトタンの寄せ集めであったが、これにも限りが
騰、大戦景気で株も暴騰し市井には造船や鉄鋼販売で財を成す者が あり、かつ焼けトタンでははなはだ心細い。トタントタン、トタン
続々と現れた。 はないかの叫び悲痛なものであった。京浜間のトタンのストック約
1917年4月に米国が参戦すると、米国からの鉄の輸入も途絶し 2000t は焼けてしまった。建物その他に使用していたもので、焼け
た。明治時代から問屋が集まり始めていた立売堀・新町はこの時期 た分も1万 t 以上だとのこと。震災前は、むしろ供給過多で標準もの
に急速に発展し、やがて今日の原型となる景色が姿を現すことにな 平板30番1円10銭前後であったものが、たちまち2円となり、 2円 CHRONICLE
る。栄一が会社員を辞して独立し、鉄鋼二次製品問屋を立ち上げた 30銭となり、はては5円以上という突飛なものも現れた。」 (出典:
いと考えるようになったのも、この頃であったと思われる。 川西正鑑著『商品取引の見方 一般商品篇』 1925年)
CHRONICLE
Ⅰ
片山栄 の 時代 そ 一 と
片山栄一商店の創業 品不足を受けて亜鉛鉄板の価格は急騰。関西から大量の製品が流
入し、東京の業者は現金払いでそれを奪い合った。 1924年には大
1919 (大正8) 年8月1日、栄一は22歳の若さで片山栄一商店を 阪鉄板製造株式会社が小松川製造所を建設し、東京進出を果たして
開業した。場所は心斎橋筋から一丁ほど東へ入った大阪市南区安堂 いる。震災につけこんで暴利を得た業者もあったため、国は復興資
寺橋通 (現・中央区南船場) 。丁稚を一人置いていたとはいえ、住宅と 材及び生活必需品に関する暴利取締令と非常徴発令を発動して亜鉛 Ⅱ
大阪 か ら へ 日 本全国
店舗を兼ねたささやかな個人商店であった。 鉄板の価格を平板 (30番) 1枚1円80銭に規制するとともに、輸入
しかしその前途は多難であった。第一次世界大戦が1918年11月 関税の免除措置を実施した。
に終結し大戦景気は終息。同年7月には米価高騰により富山で米騒 とにもかくにも関東を再建する必要があったため、政府は震災直
動が起こった。当社の開業はその翌年にあたり、 3月には官営八幡 後に合計30万 t もの亜鉛鉄板・メッキ用薄鋼板を発注した。だが、
製鉄所が不況のため高炉の生産を休止していた。 その製品が大量に到着したのは震災復旧後で、供給過剰により東京・ Ⅲ
片山鉄建 精神 の
鉄鋼業の保護助成を民間企業にも拡げる意図で、政府は大戦中の 神田の鉄成金は多くが没落し、業界では倒産が相次いだ。
1917年7月に製鉄業奨励法を公布したが、これにより業界に新規
参入が相次ぎ、市場では製品がだぶついていた。さらに欧米が輸出
を解禁し、戦時中に発注された製品も欧米から続々と届いた。なか
でも敗戦国ドイツのメーカーがアジア市場にダンピングを仕掛け、 Ⅳ
薄鋼板の価格は最盛期の10分の1近くとなった。開業間もない当 近年 の 片山鉄建
社も、このような困難な時期をくぐりぬけていかねばならなかった
はずである。
関東大震災の被害のなかで
第
世界的な軍備縮小が進み景気回復が遅れるなかで、 1923 (大正 1
章
12) 年9月、関東大震災が発生し東京の街は壊滅的な被害を受けた。 「
復旧作業には鉄鋼二次製品が欠かせないが、東京の亜鉛鉄板メー 「 「
関東大震災の被災状況(出典:『関東大震災写真帖』日本聯合通信社、1923 年、国立国会図 「
カーのほとんどが被災し、東京亜鉛鍍金も400坪の仮倉庫以外すべ 書館所蔵) 「 「 「
「
てを焼失したため、亜鉛鉄板は極端な品不足に陥った。当時の文献 「
「
にはこう書かれている。 「 「
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044 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 045