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1919 1945

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             の商標を押していた。商標は佐渡島西店がアサヒ印・らん印、福田                                                           (昭和4) 年に、大阪市西区立売堀北通5丁目へと移転した。

                                             商店がお多福印、大阪金網株式会社が旗印、津熊宮蔵商店 (後の株式                                                            トラックのような陸上運送の手段がなかったため、地方への発送
                                             会社津熊商店、現・津熊鋼建株式会社) がナニワ印で、当社製品の商標                                                         はもっぱら貨車を用いたが、当社以外の荷物と混載されて送られる
                                             にはキング印 (1級品) と羽矢印 (ハネ品) の2種類があった。                                                         こともあって、しっかりと荷造りをしなければならなかった。この

                                               薄板が国内で十分に調達できない時代であったため、当社はベル                                                           トタン板の荷造りを手作業で行うことを当社では “ アンマキ ” と呼
                                             ギーから薄板を輸入し、大阪トタン板で加工してキング印浅山薄板                                                            んだ。事実上の標準サイズとなっていた31番の平板20枚から25
           アサヒ印の看板                           の商品名で販売していた。当時の標準的な極薄鉄板 (31番) が30"×                                                       枚を筒状に巻く “ アンマキ ” 作業は非常に体力を消費し、文字どお
                                             6′ (0.27mm×914mm×1,829mm) 、 19山 (東京は20山) であったのに                                           り作業者泣かせの仕事であった。また、配送についても荷車を用い                                                                      CHRONICLE

                                             対し、キング印は27"1/2 、 18山とやや小ぶりで1枚40銭程度の安                                                      て人力で行うことがあった。
                                             価で販売し、業界に一大旋風を巻き起こした。                                                                       若い頃、神戸の貿易会社・長瀬商店で5年間勤務していたことも
     CHRONICLE
                                                                                                                                       あり、栄一は国内、特に大阪近郊で同業者と競合しながら激しい商                                                                      Ⅰ
                                                                                                                                                                                                                                            片山栄 の 時代 一 と そ
                                             商圏の拡大―海外への想い                                                                              売をするより、もっと広く、新しい需要の広がりを求めていた。その
                                                                                                                                       為、朝鮮半島や台湾への取引に早くから力を入れていた。当時から
                                               恐慌から戦争の時代へ―。社会に不安が満ちた時代であったが、                                                           勤務していた俵谷武は当時をこう語る。
                                             幸いにも社業は順調に回復して社員も増え、北陸・名古屋、岡山・                                                             「ある時、朝鮮貿易商に現金で薄板を売り集金に行きました。驚く

                                             広島へと商圏を拡大していった。事務所は次第に手狭となり、 1929                                                         なかれ小切手金額3万円です。これは250屯の重量になります。当                                                                     Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 本全国 へ 日 か ら
                                                                                                                                       時の商売で2,000円見当の集金はたまにありますが万のつく商売は
                                                                                                                                       全然ない。鬼の首でも取ったような気持ちで住友銀行船場支店へ入
                                                                                                  E.K

             COLUMN-     2    関西業界人との交流                                                                                                金し社長へ電話連絡した記憶は終生忘れることができません。」 (『い
                                                                                                                                       ずみ』 8号、 1966年6月)
                                                                                                                                         アジア向けの貿易港として栄えた大阪港の存在は、栄一の海外へ                                                                     Ⅲ
                   栄一初代社長は妻・八重との間に三男・二                         芦屋周辺には関西経済の名士が居を構え、                                                                                                                                                          片山鉄建 の 精神

                 女をもうけ、八重の没後、1944(昭和19)年                     宝塚や猪名川のゴルフ場で楽しむ人々も少な                                                      の想いをかきたてたことであろう。
                 に豊福ミツヱと再婚してから澄子と剛の一男                        くなかった。栄一社長はゴルフを通じて業界
                 一女をもうけた。                                    人との親交を深め、日本製鉄株式会社(1934                                                    合名会社への改組
                   1933年頃には、子どもたちが喘息に似た                      年に設立された国策の製鉄会社)にしか溶鉱
                 悪性の風邪を患ったため、医者の勧めで自然                        炉がなかった時代に小型の溶鉱炉を造った尼                                                        1931 (昭和6) 年9月に勃発した満州事変を発端とする軍備拡張                                                                 Ⅳ
                 環境に恵まれた兵庫県武庫郡精道村字芦屋                         崎製鉄の経営者・井上長太夫氏などと親しく                                                      は鉄鋼需要の増大をもたらし、 1933年に鉄鋼製品の価格が2倍近                                                                     近年 の 片山鉄建
                 (現・芦屋市松浜町)に土地と建物を購入して                       なった。神戸葺合の製鉄工場の責任者で、後                                                      くに暴騰した。その後、相場が下落した時期もあったが、軍需予算の
                 転居した。購入した1,100坪の敷地内には3                      の当社にとって大きな力を及ぼした川崎造船                                                      増大、生産力増強が随時進められたため、右肩上がりの価格高騰が
                 軒の家が建てられ、栄一社長はそのうちの木                        所の取締役を務め、後に川崎製鉄を立ち上げ                                                      続くこととなった。

                 造2階建て1軒を自宅とし、残りを賃貸住宅                        た西山弥太郎氏との交流も、この頃に始まっ                                                        当社は1933年4月に合名会社片山栄一商店へと改組。合名会社
                 とした。その後はさらに敷地内の住宅を増や                        た。西山氏の邸宅は栄一社長の自宅から500                                                     となる以前から勤務していた田端新蔵、俵谷武、隅田芳正に北神嘉
                 していった。                                      ~ 600mほど北北西にあり、日常生活でも親                                                    信が加わり、 15 ~ 30名の社員となったのも同年のことであった。                                                                  第 1
                   当時の芦屋はまだのどかな漁村で、2~3㎞                      しい間柄であった。朝、魚屋が自宅の前にリ                                                                                                                                                          章
                 沖から砂浜まで地引網を曳き、半日ぐらいか                        ヤカーで売りに来る活きのよい鯛を見つけた                                                      この頃になると、官営八幡製鉄所製のトタン板を販売する大阪の指                                                                      「 「
                 けてイワシを水揚げしていた。海岸近くに住                        栄一が、次女の米子に命じて西山氏の家に届                                                      定問屋5社のなかに入り込むことができた。その会合には、後の八                                                                      「 「
                 む子どもは漁を手伝いながらバケツに魚をも                        けさせたという逸話も残っている。                                                          幡製鉄所社長である稲山嘉寛氏、三井物産副社長となる稲垣登氏、                                                                      「 「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                 らうのを楽しみにしていた。                                                                                                         木下商店 (後の木下産商) の木下茂氏が参加しており、人脈の形成に                                                                   「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                       大いに利するところがあった。                                                                                      「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「



        048  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  049
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