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1946 1949
沿革編 沿革編
商品発送の荷造りを手作業で行うアンマキ作業についてはすでに
カンカン E.K
述べたが、ほかに鉄の塊を目方で量り売りする看貫や釘樽の荷造り
COLUMN- 5 バラック精神が生まれた場所
なども行われた。釘は60kg もの重さがある木材の樽に入れられて
おり、そのまま地方へ出荷したのでは途中で樽が破れてしまう。そ
店舗 も自宅でも、これを方針とした。社内はもち
こで上から見て Y 字に縄をかけて荷造りをした。
1階が表通りに面し、立売堀北通にあり、終 ろんのこと、来客にも昼食を出して喜ばれた。
営業所と倉庫の間の通路を抜けたところに食堂、そして会計が使 戦直後の焼け跡に建てた粗末な建物だった。 居宅部分(会計)
用する事務所が造られ、その上は妻帯者のための寮となり、栄吉の 事務所は2列に机を並べて向かい合わせに座 奥の居宅部分は、栄一の父・栄吉の住居。2
住居にもなっていた。 り、片側ずつ8~10席、全部で20名弱が座れ 階は来客があったときの座敷だった。 CHRONICLE
当時の片山商店は社長以下10名で、社員は栄吉の出身地である る広さだった。トタン板倉庫に接したところ
尾道から縁故採用で集めた若者たちがほとんどであった。番頭は上 に出入荷係(「受渡し」と呼んでいた)がいて、
CHRONICLE
海片山洋行で指揮を執った北神嘉信が務め、新入社員は丁稚と呼ば 人手がいるときは、店の者も積み下ろしを手 北 片山栄 Ⅰ
れた。恰幅のよい栄一は大将と呼ばれ、丁稚にとっては “ 怖い存在 ” 伝った。 立売堀北通 そ と の 時代 一
であった。 店の2階には独身者用の部屋が3間あった。
トタン板張りの簡素な建物で、当初は夏は暑
事務所の裏は、現在では埋め立てられてしまった立売堀川に接し、
く、冬は寒かった。南側は、立売堀の川に面し 店 釘 の 倉庫
会計の一室での長谷川 製品は岸に艀で届いた。川には小さな魚が棲み、若い社員たちも川 倉庫 の 鋼板 通路 田中平三郎商店
(写真は 1964 年。裏は立売堀川を埋め立てた所) の中で泳ぎ遊んだ。 ており、戦後しばらくは、この水運も入荷の役 Ⅱ
に立った。 大阪 ら か へ 日 本全国
食堂 食堂 倉庫 雑品
株式会社片山商店への改組 事務所の裏にあり、3食腹いっぱい、ご飯 会計
電話 WC
を食べることができた。ただし食糧難の時代 交換室
1948 (昭和23) 年7月、当社は資本金100万円で株式会社片山商店 だったので、麦やイモなどの主食となる食べ
立売堀(水路)
に改組した。同年のインフレーションは極端なもので、郵便料金が4 物は入ってきたが、米は貴重であった。おか 立売堀 ( 水路 ) Ⅲ
片山鉄建 精神 の
倍になるなど、公共料金までが続々と値上げされた。当時の初任給 ずは原則として一汁一菜。腹いっぱいにさえ 社屋見取り図。1955 年頃までは、立売堀の水路に水が流
は月額700円。しかし社員の食費は900円であった。栄一はその事 なれば、幸せな時代だった。栄一社長は、店で れていた
実を数カ月後に初めて知り、入社時に遡って給料を修正して不足分
を新入社員に支給したという。その翌年には国がドッジ・ラインに Ⅳ
よる強硬なデフレ政策を推し進め、あおりを受けて多くの企業が倒 近年 の 片山鉄建
産した。
統制経済の下、改組後も物資の配
給に明け暮れる日々が続いた。しか
し栄一は「いつまでもこんな時代は
続かない。思いのままに商売できる 第
日が近いうちに必ずやってくる」と 2
章
考えて、来るべき時代に向けての布
跡 け 焼
石を着実に打っていった。
「
ク ッ ラ バ ら か
倉庫前にて阪本と佐々木(写真は 1964 年) 改組後の看板
058 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 059