Page 31 - 00_片山鉄建様_表紙
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1946 1949

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                               商品発送の荷造りを手作業で行うアンマキ作業についてはすでに
                                                                                       カンカン                                                                                                                                   E.K
                                             述べたが、ほかに鉄の塊を目方で量り売りする看貫や釘樽の荷造り
                                                                                                                                         COLUMN-     5     バラック精神が生まれた場所
                                             なども行われた。釘は60kg もの重さがある木材の樽に入れられて
                                             おり、そのまま地方へ出荷したのでは途中で樽が破れてしまう。そ
                                                                                                                                              店舗                                         も自宅でも、これを方針とした。社内はもち
                                             こで上から見て Y 字に縄をかけて荷造りをした。
                                                                                                                                               1階が表通りに面し、立売堀北通にあり、終                      ろんのこと、来客にも昼食を出して喜ばれた。
                                               営業所と倉庫の間の通路を抜けたところに食堂、そして会計が使                                                                  戦直後の焼け跡に建てた粗末な建物だった。                       居宅部分(会計)
                                             用する事務所が造られ、その上は妻帯者のための寮となり、栄吉の                                                                   事務所は2列に机を並べて向かい合わせに座                         奥の居宅部分は、栄一の父・栄吉の住居。2
                                             住居にもなっていた。                                                                                       り、片側ずつ8~10席、全部で20名弱が座れ                     階は来客があったときの座敷だった。                                 CHRONICLE

                                               当時の片山商店は社長以下10名で、社員は栄吉の出身地である                                                                  る広さだった。トタン板倉庫に接したところ
                                             尾道から縁故採用で集めた若者たちがほとんどであった。番頭は上                                                                   に出入荷係(「受渡し」と呼んでいた)がいて、
     CHRONICLE
                                             海片山洋行で指揮を執った北神嘉信が務め、新入社員は丁稚と呼ば                                                                   人手がいるときは、店の者も積み下ろしを手                                                 北                        片山栄 Ⅰ

                                             れた。恰幅のよい栄一は大将と呼ばれ、丁稚にとっては “ 怖い存在 ”                                                               伝った。                                                立売堀北通                                    そ と の 時代 一
                                             であった。                                                                                             店の2階には独身者用の部屋が3間あった。
                                                                                                                                              トタン板張りの簡素な建物で、当初は夏は暑
                                               事務所の裏は、現在では埋め立てられてしまった立売堀川に接し、
                                                                                                                                              く、冬は寒かった。南側は、立売堀の川に面し                                         店     釘 の 倉庫
           会計の一室での長谷川                        製品は岸に艀で届いた。川には小さな魚が棲み、若い社員たちも川                                                                                                                         倉庫 の 鋼板    通路        田中平三郎商店
          (写真は 1964 年。裏は立売堀川を埋め立てた所)         の中で泳ぎ遊んだ。                                                                                        ており、戦後しばらくは、この水運も入荷の役                                                                        Ⅱ
                                                                                                                                              に立った。                                                                                         大阪 ら か へ 日 本全国
                                                                                                                                              食堂                                                          食堂      倉庫  雑品
                                             株式会社片山商店への改組                                                                                      事務所の裏にあり、3食腹いっぱい、ご飯                                          会計
                                                                                                                                                                                                                 電話  WC
                                                                                                                                              を食べることができた。ただし食糧難の時代                                              交換室
                                               1948 (昭和23) 年7月、当社は資本金100万円で株式会社片山商店                                                           だったので、麦やイモなどの主食となる食べ
                                                                                                                                                                                                     立売堀(水路)
                                             に改組した。同年のインフレーションは極端なもので、郵便料金が4                                                                  物は入ってきたが、米は貴重であった。おか                                   立売堀 ( 水路 )                            Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 精神 の
                                             倍になるなど、公共料金までが続々と値上げされた。当時の初任給                                                                   ずは原則として一汁一菜。腹いっぱいにさえ                       社屋見取り図。1955 年頃までは、立売堀の水路に水が流
                                             は月額700円。しかし社員の食費は900円であった。栄一はその事                                                                 なれば、幸せな時代だった。栄一社長は、店で                      れていた
                                             実を数カ月後に初めて知り、入社時に遡って給料を修正して不足分



                                                                                                                                       を新入社員に支給したという。その翌年には国がドッジ・ラインに                                                                      Ⅳ
                                                                                                                                       よる強硬なデフレ政策を推し進め、あおりを受けて多くの企業が倒                                                                       近年 の 片山鉄建
                                                                                                                                       産した。

                                                                                                                                         統制経済の下、改組後も物資の配
                                                                                                                                       給に明け暮れる日々が続いた。しか
                                                                                                                                       し栄一は「いつまでもこんな時代は

                                                                                                                                       続かない。思いのままに商売できる                                                                                    第
                                                                                                                                       日が近いうちに必ずやってくる」と                                                                                    2
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                                                                                                                       考えて、来るべき時代に向けての布
                                                                                                                                                                                                                                           跡 け 焼
                                                                                                                                       石を着実に打っていった。
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           ク ッ ラ バ ら か



                                  倉庫前にて阪本と佐々木(写真は 1964 年)                                                                                                                改組後の看板




        058  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  059
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