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1946 1949
沿革編 沿革編
徳山出張所の開設 こうして、北は北海道、南は鹿児島、長崎へと、まだ若い社員たち
が旅立っていった。北海道へは2日がかりで青函連絡船に乗らなけ
1949 (昭和24) 年、徳山鉄板が独自ブランド “ 七ツ星印 ” を立ち上 ればならなかったが、それは太平洋戦争時代にソビエト連邦が設置
げて亜鉛鉄板を生産することを決め、岩井産業 (1943年に改組、終戦 した機雷を避けながらの船旅であった。また、四国への旅では、トン
後は総合商社として発展) 、加納商店、月星商事、片山商店がその取扱 ネルに入るたびに汽車の窓から黒煙が車内に吹き込み、ワイシャツ
商社となって「七曜会」を結成した。これを受けて、戦時中に天津片 が真っ黒になる。そのため目的の駅に到着後、どこかでシャツを着
山洋行に勤務した隅田芳正が同年4月に単身で徳山に赴任し、櫛ケ 替えなければならなかった。
浜の中町に民家を借り、 1階の8畳ほどの部屋を改造して電話を引 出張先からの連絡には電報を用いた。電報は字数によって課金さ CHRONICLE
いて事務所にし、 2階を住居として家族を呼び寄せた。これが徳山 れるため、略号表を作成して通信料金の節約を図った。略号表は次
出張所のはじまりである。事務所は徳山鉄板の近くにあり、月星運 第に改善され、今日資料として残されている略号表では、月星は「マ
CHRONICLE
輸が国鉄 (現・JR) 櫛ケ浜駅前に新設した倉庫の一部を借り受けて倉 ヘ」、片山商店本店の受信略号は『オウサカミナミ」クギトタン』とさ Ⅰ
片山栄 の 時代 一 と そ
庫として利用した。 れている。専務の北神からの連絡には最後には必ず「セセウレ」がつ
いた。「せいぜい頑張って売れ」という励ましの一言であった。
当時の配送業務
Ⅱ
大阪 か 本全国 へ ら 日
戦後まもない時期には、馬が曳く荷車である “ 馬力 ” や、人間が
肩に紐をかけて荷車を引く “ 肩曳き ” が商品の運搬に用いられた。
前者は2t ぐらいまでの重い荷物を、後者は200 ~ 300㎏までの比較
的軽い荷物を運搬する際の方法で、“ 肩曳き ” による運搬では紐が
肩に食い込み、流れる汗と格闘しながらの辛い作業であった。炎天 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
下で溶けたアスファルトの上を移動する際には鉄輪がずっしりとめ
り込み、時には市電の軌道に落ち込むこともあったという。薪を焚
いて走る木炭車なども存在したが、現在の自動車のような力はなく
4t も積めば精一杯であったという。
徳山出張所にて。右から服部、小島
しばらくして三輪トラックが使用されるようになった。トラック Ⅳ
全国展開の本格化 近年 片山鉄建 の
徳山鉄板との直接取引は、片山商店の経営戦略を大きく変えた。
製品を量的に確保できたことにより、切符販売という制限はあるも
のの、地方への本格的な販売が可能になったのである。
大阪の問屋ならば、通常、大阪を中心にして少しずつ販売エリア 第
を拡げていこうと考えがちである。しかし栄一は東西南北、日本の 2
章
端から順番に販売攻勢をかけていこうと考えた。他社と競合しなが
跡 焼 け
ら少しずつ拡げていくよりも、まだ誰も手をつけていない地域や、
物資がまだ十分に行き渡らない地域から進めたほうが効率がいいと 「 ラ バ か ら ッ ク
考えたのである。戦前、早くから海外に目を向けていた栄一らしい
発想であった。 略号が記された伝票
060 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 061