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1946 1949
沿革編 沿革編
には釘樽200個分、合計約10t の商品を積み込むことができた。釘 E.K
樽を倉庫に納める際には倉庫で5段積みにする作業があり、最上段
COLUMN- 6 北海道での得意先開拓
まで積み上げるには60kg の釘樽を担ぎ上げる必要があった。
商品は国鉄 (現・JR) 大阪駅や湊町駅 (現・JR 難波駅) から貨車を用
戦後間もない時期の札幌は、ポプラ並木に 樽・札幌の主力問屋をしっかりと取り込む一
いて全国に送られた。貨車は通常の客車よりも小型で、バランスを
沿って赤レンガの建物が立ち並び、馬車が主 方で、大阪鉄板製造、日亜製鋼(現・日鉄日新
取るため底部に金属などの重いものを敷き詰める。亜鉛鉄板や二次 たる運搬手段であった。その風景に接して、 製鋼)、丸十鋼業などのメーカーも札幌・旭川
製品はその重しとして最適で、当時の国鉄から優遇され、比較的安 専務だった北神は中国の南京を思い出し「ま 地区の大手問屋に出張して直接取引をしてい
い運賃で発送できた。貨車には有蓋車と無蓋車があり、大切な商品 るで外国にやってきたようであった」と語っ た (注) 。そこで当時の営業担当者は、大手問屋 CHRONICLE
が傷むことのないように、当社は有蓋車を用いて発送した。 ている。 が足を運ばない地方問屋に足繁く通ったが、
当社と同様に、地方展開に力を入れる二次製品問屋もあった。貨 北海道へは2カ月に1回、大阪からの出張販 それが大手問屋の不興を買う原因にもなっ
CHRONICLE
車の数が限られていたため、 1台でも多く貨車を押さえようと競争 売が行われ、青函連絡船が到着する函館を皮 た。大手問屋からは販売先を荒らされている 片山栄 Ⅰ
になり、貨車取りなどの仕切りを全面的に請け負っていた日本通運 切りに、室蘭・札幌・小樽・岩見沢・月形・滝川・ と思われたのである。 の 時代 一 と そ
の事務所に酒瓶を持って挨拶に行くことなどもあったという。現在 留萌・旭川・士別・名寄・帯広・釧路・網走・
女満別・北見の各地方の販売店をきめ細かく (注)
ならばとても考えられないが、まだそのようなことが慣習的に行わ トタン板や釘、針金などを多く扱っていた卸問屋は大阪と
訪問していったが、当時は食糧事情も交通事 東京にあり、北海道へ商売を拡げていたのは、当時の大阪
れていた時代のことである。
情も悪く、弁当を持参して鞄一つで道内を移 の大手である下村商店、梅本商行などであった。当社も早
また、九州・四国・中国方面の瀬戸内輸送は、安治川から機帆船 くから始めたが、北海道全体を広く扱う札幌・小樽にある Ⅱ
動する汽車の旅は困難を極めた。 大手取扱店をとばして地方都市に拡販していった。いわば 大阪 本全国 へ 日 か ら
に積み込んでいた。 大問屋の売り先に拡げるということでもあったので、進出
北海道では下村商店や梅本商行(現・株式
時代は大手から嫌われた。しかし、地方都市への展開は、
会社梅本商行)などの大阪の問屋が、函館・小 扱い量も増えてどんどん力を拡大し、末端の需要をキープ
する結果として、良い方向に進んでいった。
Ⅲ
片山鉄建 精神 の
Ⅳ
近年 片山鉄建 の
使用していた三輪トラック。写真は牧平
第
2
章
け 跡 焼
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バ ら か ク ッ ラ
062 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 063