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Chapter1
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沿革編 沿革編
第 章 1950 1962 とを望まれた西山社長は、栄一を葺合工場に招いて直接意向を伝え
(昭和 37)年
(昭和 25)年
た。その意気込みを目の当たりにした栄一は、かねてより尊敬する
栄 三 片 山 社 就 任 長 の 川崎製鉄と直接取引開始 西山社長の意志を心より受け止め、申し出に応じることを決めた。
こうして、川崎製鉄の亜鉛鉄板はリバーブランドで流通することと
なり、同年7月に当社は川崎製鉄の窓口商社となった。
1950 (昭和25) 年5月、栄一が待ちかねていた亜鉛鉄板の配給価格 当社が窓口商社となった背景には、亜鉛鉄板の販売において大阪
統制撤廃が実現した。また、 8月には川崎製鉄株式会社 (現・JFE ス でトップクラスの実績を上げていることに加え、亜鉛鉄板西部問屋
チール) が誕生して西山弥太郎氏が社長に就任した。川崎重工業株式 組合の理事長を務めていた栄一への信頼感や、個人的交流により築 CHRONICLE
会社 (1939年に川崎造船所から社名変更) で製鉄部門を担当していた き上げた親しい関係があった。
西山氏は、かねてより鉄鋼部門の分離・独立を主張していたが、そ
CHRONICLE
れがいよいよ実現することとなったのである。 朝鮮戦争の勃発とジェーン台風 片山栄 Ⅰ
川崎製鉄の発足にあたり、西山社長は亜鉛鉄板の本格的な生産に 時代 と の 一 そ
乗り出した。その背景については、『川崎製鉄二十五年史』にこう書 今日では段ボールや樹脂製の容器など、さまざまな素材の容器が
かれている。 市場に溢れているが、かつてはみかん箱や魚のトロ箱にも釘打ちの
木製箱が用いられていた。いわば二次製品は日常における必需品で
「当初は専業のめっき会社に委託して生産した。しかし将来の増 あり、文字どおり、品物さえあればいくらでも売れた時代であった Ⅱ
大阪 日 ら へ 本全国 か
勢を見込み、また、委託先の能力不足を補うため、薄板製品の消化策 E.K
として、じか生産に乗りだすこととし、 25年7月、鍍金工場を新設
COLUMN- 7 鉄鋼産業の成長と業界再編
した。」
1950(昭和25)年4月、過度経済力集中排 こととなった。
その事業は実に前向きなもので、大阪鉄板製造、東京亜鉛鍍金と Ⅲ
除法により日本製鉄株式会社が4社に分割さ 業界は大きく変わり始めた。1953年10 片山鉄建
いった専業メーカーでも2連の生産設備しかなかった時代に、西山 れた。4社のうち、高炉メーカーとしては八幡 月には徳山鉄板と大阪鉄板製造が合併して の 精神
社長は神戸市の葺合工場に4連もの設備を導入していた。 製鉄と富士製鉄が誕生したが、それに加えて 日本鉄板株式会社(現・日鉄日新製鋼)とな
その拡販にあたって、当社が窓口商社となって販売に尽力するこ 1953年6月に川崎製鉄が千葉製鉄所第1高 り、1957年、大阪工場に連続亜鉛メッキ設備
炉の火入れを行ったことで、来るべき高度経 を導入した。また、日本鋼管は1955年から
済成長に向けた需給体制が整った。八幡製鉄、 1961年まで専門商社の吸収合併を繰り返し、 Ⅳ
富士製鉄、日本鋼管(1912年設立)の3社しか 東京通商株式会社にまとめ上げた。 近年 の 片山鉄建
高炉がなかった時代に、民間企業でありなが 川崎製鉄は1954年、川鉄製品を専門に扱っ
ら高炉メーカーとなった川崎製鉄の存在は業 ていた麻耶興業、青山特殊鋼、新庄鋼材の3商
界に大きな衝撃を与えた。これ以降は高炉ご 社を合併させて川鉄商事株式会社(現・JFE
との系列化が進み、生産から販売に至るまで 商事株式会社)を発足させた。当時、国内には
系列間で競い合い、それぞれが市況対策や生 鉄鋼販売で大きな実績を持つ総合商社がまだ
産量調整などを行うようになった。 存在しなかった。そこで、機動力を高め精力 第 1
鉄鋼産業の急速な成長は、金融業界や大手 的な販売を行うには直系専門鉄鋼商社が必要 章
繊維系商社からも関心を集めた。さまざまな思 であると考えた川崎製鉄は、千葉製鉄所の建 「「「
惑が絡み合った結果、亜鉛鉄板のビジネスも大 設構想と併行して直系商社の育成を打ち出し
がっしょうれんこう
掛かりな再編成の波に投げ込まれ、合従連衡、 ていた。 社長 三
吸収合併のなかで多くの専門商社が消え去る 「
就任
西立売堀(出典:立売堀新町振興会編『立売堀新町振興会十年史』1956 年)
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