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1950 1962
沿革編 沿革編
ていたが、後継者としての要望が高まったため急遽当社に入社し、
同年2月に第2代社長に就任した。
栄一初代社長の逝去により沈みきっていた社内の雰囲気を前向き
に乗り切るべく、栄三社長と北神専務は同年12月に資本金を250
万円に増資するとともに、栄一初代社長の次男・茂が中心となって
東京出張所を開設して全国展開を本格化させた。この時、栄三28歳、
茂23歳、そして北神は39歳であった。その経緯について専務の北
葬儀にて
神はこう語っている。 CHRONICLE
「今後のことを真剣に考え、上海時代いろいろお世話になった稲
CHRONICLE
垣さん (1965年当時、三井物産副社長) 、先年亡くなられたかつて前社 Ⅰ
片山栄 一 と 時代 の そ
長の真の心の友人でまた神鋼製品の仕入先でもあった日商の堀口さ
ジェーン台風の被災状況(出典:『昭和二十五年九月三日ジェーン台風記録写真』1950 年、
大阪市立中央図書館所蔵) ん (後の日商専務) にいろいろ相談いたしましたところ、ご両人とも
口を揃え、どうも前社長はあまりにも真面目で堅すぎる。少しははっ
と言える。なかでも戦争や災害においては、復旧に用いる建材や二 たりをきかさねばと云う忠告もあり、それに亜鉛鉄板は昔から関西
次製品が極端に不足した。 より関東の方がはるかに需要が多いと云うことは常識になっておっ Ⅱ
大阪 日 ら か へ 本全国
1950 (昭和25) 年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越境し、朝鮮 た関係上、思い切ってこの際東京に進出する決心をした次第です。」
戦争が勃発した。この戦争による特需は日本経済を活性化させ、建 (『いずみ』 2号、 1965年12月)
設資材では3万円で買った丸棒が数日のうちに十数万円まで値上が
りするほどの需給逼迫をもたらしたという。 当時の中部地方には東海道線の特急停車駅ごとに大きな問屋があ
また、同年9月3日にはジェーン台風が高知県室戸岬の東側を通 り、大阪からの出張で営業を行っていたが、東京出張所の設置以降 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
り、徳島県に上陸した。この台風は最大瞬間風速47.2m/s を記録 は大井川を境界として、その東西で商圏を分けた。
する強風で知られ、大阪湾では強風による高潮が発生、全国で死者 E.K
398名、行方不明者141名、負傷者2万6,062名、住家全壊1万 COLUMN- 8 大阪長尺屋根株式会社の設立
9,131棟、半壊10万1,792棟の被害をもたらした。
朝鮮戦争勃発にジェーン台風が続いたことで、亜鉛鉄板の価格は 1954(昭和29)年、八幡製鉄で長尺コイル であった。 Ⅳ
暴騰した。だが、翌1951年7月の停戦交渉開始で景気は急速に沈 の生産が開始された。長尺コイルとは板状の 大阪長尺屋根の前身は、滋賀の仲井一族が 近年 の 片山鉄建
み込み、高炉メーカーの生産力増強と政府の金融引き締め政策が生 鉄板を円形に長く巻いた板状コイルのこと 経営する板金加工業者であった。当社はこ
み出した需給のアンバランスにより、業界では倒産が続出した。 で、それまでの切板メッキ製品と比べ、材質が の業者に商品を納入していたが、経営不振で
均一で、メッキの剥離・歪みが極めて少なく、 不良債権が発生する恐れがあった。そこで
用途に応じて必要な寸法に切れるためロスが 1958年に個人経営から法人化し、1959年
片山栄一の急逝
出ないことがメリットだった。屋根の端から より当社が援助を行うこととなった。
継ぎ目なく1枚で葺くことができる利点から 大阪長尺屋根には、当社の援助を機に北神 第 1
1952 (昭和27) 年10月、日生病院に入院した栄一は、いったんは
長尺コイルは屋根材として急速に普及し、後 専務の上海時代の知己であった林正雄が入 章
退院し静養に入ったものの再び体調を崩し、翌1953年1月20日に
発メーカーも続々と参入。建築物の屋根構造 社、1961年には正式に当社のきょうだい会 「「「
帰らぬ人となった。享年56であった。 そのものにも大きな変革をもたらした。その 社となった。1963年に仲井一族が退陣して
栄一が亡くなったまさにその時、意志を継ぐべく27歳の長男・ ような時代に、長尺コイルによる屋根葺工事 からは林が社長に就任した。 三 社長
栄三が入社した。栄三は旧制第三高等学校から京都大学に進み、工 のため設立されたのが大阪長尺屋根株式会社 「
就任
告別式の様子 学部工業化学科で学んで、すでに一般企業の研究所に就職が内定し
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