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1950 1962

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             堅実経営とバラック精神                                                                               築する企業が相次ぐなかで、当社の事務所は終戦直後の面影を残し
                                                                                                                                       たバラック建築のままであった。栄三は「事務所は立派である必要

                                               栄一初代社長の逝去を受けて就任した栄三ではあったが、商売は                                                           はなく、借り物でもいい。だが、倉庫は自社でしっかりしたものを
                                             全くの未知の世界であった。そこで、栄三は通常の新入社員と同じ                                                            持つ必要がある」と考え、倉庫の整備に力を入れた。この時期には事

                                             ように倉庫に配属され、釘樽を担ぎながら修業をした。経営に関し                                                            務所の西側倉庫 (針金) 、東側倉庫 (丸釘) 、南側会計の裏倉庫 (ナマシ鉄
                                             ては、当面は北神嘉信専務が中心となって進めていくことになった。                                                           線) があり、西区新町に新町倉庫が設けられた。
                                               当社の堅実な経営は業界で「カタイチ」の異名をとっていた。「カ                                                            当時最も勢いのある二次製品問屋は今里の下村商店であったが、
                                             タイチ」とは、創業者片山栄一の名前と、堅い会社、すなわち健全経                                                           当社も「追いつけ、追い越せ」との意気込みで事業に邁進し、当時の                                新たに整備された倉庫                           CHRONICLE

           作業着姿の社員                           営という意味合いを重ね合わせた言葉であろう。                                                                    大阪では「東の下村、西の片山」と並び称せられていた。その精神的
                                               1953 (昭和28)~ 1954年頃には、日本銀行の手形再割適格業者と
     CHRONICLE
                                             して指定を受けた。戦後から高度成長期にかけての日本では、金融                                                                                                                                                   E.K           片山栄 Ⅰ

                                             面での逼迫が経済発展を阻害することも少なくなかった。そこで、適                                                             COLUMN-     9     昭和30年代の立売堀・新町                                                                   時代 一 の そ と
                                             格と認めた業者の手形についてはただちに現金化できるように設け
                                             られたのがこの制度であり、当社の “ 信用の金看板 ” であった。す                                                                昭和30年代になると、主力となる流通手段                        立売堀・新町地区には当時三百数十社の問
                                             なわち、当社が代金支払いに用いた手形を受け取った仕入先は、その                                                                  が河川から陸上交通へと移り始めた。水の都                       屋が存在し、鉄鋼関連の専門商社のうち川崎

                                             手形を銀行に持ち込むことですぐに現金化 (割引) することができる。                                                               として栄えてきた大阪でも河川の埋め立てに                       製鉄の指定商社では、当社と三和金属工業株                              Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 日 ら 本全国 か へ
                                             手形を受け取った銀行も、その割引を保証している日本銀行に持ち                                                                   よる道路の整備が進み、1955(昭和30)年7                    式会社・薮本鉄鋼株式会社が立売堀御三家と
                                             込めばすぐに現金化することができた。当然ながらその審査は厳し                                                                   月、西横堀川から木津川まで1,232mを結ぶ                     呼ばれたと伝えられている。当社の西隣には

                                             く、中小企業では200社程度しか指定を受けられなかったという。                                                                  立売堀川の埋め立て工事が始まった。また、周                      株式会社小野製作所(現・株式会社オノマシ
                                                                                                                                              辺道路の舗装が進められたのもこの頃であっ                       ン)、東隣には田中平三郎商店があり、北向か
                                               経験豊富な30 ~ 40歳代が中心となって活躍する問屋が多いなか
                                                                                                                                              た。大型のトラックが次々と運搬できる陸上                       いには正面に谷商店、東洋研磨工業株式会社、
                                             で、当社の社員は非常に若く、 20 ~ 30歳代が中心であった。「言い                                                                                                                                                           Ⅲ
                                                                                                                                              交通で能率よく配送できるようになり、立売                       大阪金網株式会社が並び、やや離れて山善機                               片山鉄建 精神 の
                                             たいことが言えるような会社にしたい」と考えていた栄三は若い社
                                                                                                                                              堀川のような運河(堀)で小さな船に積み替え                      械器具株式会社(現・株式会社山善)が、そし
           釘の棚                               員達に「遠慮は罪悪だ。いい格好するな、嘘をつくな」と話し、“ ガラ                                                                て配送するよりも、埋め立てて道路に使うか、                      て株式会社たわらやがあった。
                                             ス張りの経営 ” を標榜して、経営内容から購入した土地の明細に至                                                                 土地として近隣住人の所有とするほうが喜ば                         当社は新町に亜鉛鉄板を保管するための倉

                                             るまであらゆる情報を社員に知らせ、部外者にも公開した。                                                                      れる時代となった(当社も、隣接部分の立売堀                      庫と寮を設け、後には立葉町にも倉庫を設け
                                               1955年12月、当社は資本金を500万円に増資したが、社屋を新                                                               の土地を所有することになり、倉庫などが広                       た。立葉町倉庫は1964年の吸収合併以前に                             Ⅳ
                                                                                                                                              くなった)。                                     たわらやが使用していたもので、当社の倉庫                               近年 の 片山鉄建
                                                                                                                                                                                         となってからは主に棒鋼を保管していた。








                                                                                                                                                                                                                                           第
                                                                                                                                                                                                                                           1
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                                                                                                                                                                                                                           「「「

                                                                                                                                                                                                                                           社長 三

                                                                                                                                              立売堀川の埋め立て地にて長谷川(写真は 1964 年)                東隣の田中平三郎商店
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           就任
                                             昭和 30 年代の大阪本店




        072  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  073
   33   34   35   36   37   38   39   40   41   42   43