Page 42 - 00_片山鉄建様_表紙
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製造所で湯通しができたのです。                                           株などの投資は一生涯するな」と。                                                                                    E .
                                                                             水害の教訓もありました。それま                                              私は今までそれを守ってきまし                                                                                   K
                                                                             で地べたに積んでいた針金を、上                                           た。バブル時代に、富山県の青年                                                                                     ュ ー イ ン ビ タ
                                                                             に置くようにしていましたね。                                            会議所が「株を買いませんか」「ゴ
                                                                                                                                       ルフの練習場を一緒にやりません                                                                                      Ⅰ
                                                                                  「本業以外には、                                             か」とよく誘いに来たものですが、
                                                                                                                                       余分な土地を買ったりしたことは
                                                                                 絶対に手を出すな」
                                                                                                                                       ありません。
                                                                                                                                       片山 お金が余分にあると、手を
                                                                             片山 片山鉄建は、トタン板を中                                           出したくなるものでね。我々は、お
                                                                             心に二次製品を売り続けてきまし                                           金がないので助かっている (笑) 。                                                                                 INTERVIEW
                                                                             た。大阪にも東京にも、そういう問                                          精田 そう、手を出したくなるんで                 1955~1965年頃。板・針金の倉庫
                                                                             屋はたくさんありましたが、今では                                          す。でも、それでおかしくなった会
                                                                             ほとんどがなくなってしまいました。                                         社がたくさんあります。私も「自分                 です。人に恵まれてきたというの                  たね。
                                                                             精田 我々が「追いつけ、追い越                                           の務め以外には、絶対手を出す                   は、やはり運ですね。                       片山 北神さんは上海で大きな
           です。生産過程でできてしまった                  じゃ」と (笑) 。                       せ、下村を」と言っていた下村商                                           な」という栄三さんのお話を教訓に                 精田 それは、やはりトップが偉                  商売をして、命がけで戦時中の片
           3級品と4級品で、 3級品は泡立っ                片山 発生品は、よく儲かったん                  店も、野崎栄蔵商店も消えてしま                                           して、一切手を出しませんでした。                 いからですよ。片山さんが今日あ                  山商店を支えてくれました。戦後
           た模様が入っていたりする。 4級                 ですよ。                             いましたね。                                                                                     るのは、北神さんと栄三さんが                   になって統制が撤廃され、片山商
           品は板が欠けたりしている。それ                  精田 今はカラー鉄板になった                   片山 それには一軒、一軒の物                                              チームワークの良さが、                    あってこそだと思います。                     店の第2の創業期となりますが、
           を1枚ずつ選別し、問屋マークを                  から少々濡れてもいいけれど、昔                  語があって、原因は簡単には答え                                                  何よりの財産                     京都大学を卒業し、博士にな                   全国展開を始めた矢先に父が亡
           押していくのです。                        は亜鉛鉄板に水分は禁物でした。                  られませんが、時代の変化なので                                                                            ろうかという秀才が、お父様が亡                  くなりました。そのときも、若い息
           片山 穴の開いた板、しわのよっ                  亜鉛鉄板を出荷するために鉄砲                   しょう。会社が続いていくこと自体                                                                           くなられたので社長になった。で                  子たちを引き連れて、北神さんが
           た板などが3級品・4級品になる。                 巻きにしているとき、汗が落ちる。                 が不思議な時代になりました。特                                           精田 それから、チームワーク。                  も、「自分が一番ものごとを知っ                  前に立ってくれました。
           不具合のあるところを除けば、品                  すると、うちの先代によく怒られま                 にこれからの10年から15年は、                                          片山さんは、役職で呼ばず、課長                  ているんだ」というような態度を一                  父が早くに亡くなり、北神さんを
           質は1級品と同じなので、そこだけ                 した。「汗が落ちないように鉢巻                  過渡期が続いていくような気がし                                           も役員も名前で呼んでいる。茂会                  切見せなかった。そういう栄三さ                  頼るしかなかったから、父以上の
           を切り取って細やかな商売をする                  きをしろ」と。                          ます。                                                       長も「茂さん」だったでしょ。                   んも偉かったし、北神さんも「栄三                 存在だと思っていました。これは兄
           業者を「発生品屋」と言っていた。                 片山 15枚ぐらいなら体力がな                  精田 片山さんがここまで大きく                                           片山 そういえば、昔から肩書き                  社長、栄三社長」と言って、立てて                 にしても同じです。北神さんが、兄
           そういう会社は、加工力を持って                  くても巻けるけど、 20枚巻くとなる               なられた理由は、真面目に本業を                                           では呼ばなかったな。                       おられた。これは大変なことだと                  弟を育ててくださったのです。
           いるわけです。                          と大変でしたね。 3ʼ×6ʼ(914mm×            やってこられたこと、そしてチーム                                          精田 専務と社長以外は、名前                   思います。                            精田 栄三さんと北神さんは、お
           精田 メーカーのブランドに対し                  1,829mm) の板が15枚というと、 1           ワークではないかと思います。                                            で呼んでいました。うちも役職で                     老舗の問屋というのは、ぼんぼ                互いに立てておられた。そのよう
           て、問屋のブランドは3級品です。                 本60㎏ぐらいになる。膝で押さえ                    若かった頃、栄三さんはよく言                                         は呼ばないようにしていたんです                  んがきて、何が何だかわからない                  にチームワークが良いということ
           片山さんの問屋マークには、キン                  て縄でくくり、貨車積みして地方に                 われていました。「ぼくは商売以外                                          が、「課長になったら、うれしいも                 うちに社長になって、番頭が反発                  が、何にも替え難い財産だったと
           グと羽矢がありました。キングはト                 送っていました。                         の投資をしてはいけないと、父 (栄                                         んだ。なになに課長って呼べよ」と                 して喧嘩し始めることが多いもの                  私は思っています。トップが偉い
           ランプのカードのような柄で、羽                  精田 1961 (昭和36) 年の第二室             一) に言われた。だから君たちも、                                         ある人に言われました。でも、私                  です。喧嘩しなくても、いがみ合う。                と、それを部下も見ている。これ
           矢は赤色をしていました。                     戸台風では、倉庫が水に浸かって                                                                            は名前でしか呼びません。若い社                  トップでいがみ合うのは絶対ダメ                  が、先代が亡くなった後に片山さ
            ともかく、その作業を夏の暑いと                 しまいました。その頃には、私は                                                                            員は、役職で呼んでいたりもするよ                 です。部下たちも社長派、専務派                  んが大きくなったときの原動力に
           きにやるわけです。倉庫に、扇風                  退社して富山に帰っていたのです                                                                            うですが。これは、片山さんから                  などに分かれてしまいます。                    なったと思います。
           機も何もない時代です。事務の人                  が、ものすごい被害だと聞いたも                                                                            仕込まれたことです。名前で呼ん                  片山 卸問屋の歴史を見ている                   片山 まさに、そうだと思います。
           たちもステテコで仕事していた。そ                 のですから、父と2人で1週間ぐら                                                                           でいたほうが、親しみがある。                   と、娘婿と新米の社長が喧嘩した                  でも、こういうことは人から言って
           こで北神さん     (注4) に「何とかなりま         い応援に来ました。                                                                                  片山 そもそも社員に恵まれてき                  といった話がよくあります。そうい                 もらうしかないからね。なかなかこ
           せんか」と言いに行きましたら、怒                    水害で泥まみれになった亜鉛                                                                           たのです。うちを見ていて、そう思                 うことがなかったのは幸せでした。                 ちらからは言えない (笑) 。
           られましたね。                          鉄板を、熱湯に通すと少しきれい                                                                            いませんか? それぞれ欠点もあ                  弟の目から見ても、兄と北神さん                  精田 これからも良い伝統を守
            「お前、何言ってるんじゃ。あ                  になる。私が到着したときにはす                                                                            るが、会社を発展させていこうと                  が衝突したことは一度もなかっ                   り、ますます発展されることをお祈
           れでお前らのボーナスが出てるん                  でに水が引いていて、湯通しの準                                                                            いう気持ちを持っている人ばかり                  た。 2人とも、いろいろ思うことは                りしています。
                                            備のために、みんな一生懸命働い                                                                            です。だから、喧嘩にならないの                  あったとは思いますが。                      片山 本日は、ありがとうございま
           注4.  北神嘉信。戦時中に上海片山洋行で活躍し、戦後                                       1961年9月16日の第二室戸台風時の一枚。
               は当社の専務を務めた                   ているところでした。大阪トタン板                 倉庫が水に浸かって、膝まで浸水                                           ですよ、うちの会社は。現在もそう                 精田 北神さんは、豪快な方でし                  した。
                                                                            (写真は、伊東と長谷川)



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