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1953 1960

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                               このような動きは激しい価格競争を引き起こした。原料を仕入れ                                                             大阪と比べて、東京の得意先は目先の損得勘定よりも人間関係の
                                             て生産する加工専門メーカーは、原板からの一貫生産を行える高炉                                                            肌が合う合わないを重視する。友達のように和やかなつき合いの「山

                                             メーカーにコスト面で対抗することが難しい。原板供給ルートを                                                             の手片山会」は有馬温泉などで泊まりがけの会合も催して、絆を深
                                             確保すべく、東京亜鉛鍍金が1955年12月に川崎製鉄の系列下に加                                                          めていった。関西の得意先は利益を優先するが、関東の得意先はイ

                                             わったため、当社東京出張所は川崎製鉄との関係を頼りに赤鳩印の                                                            ベントや接待を喜んでくれる。こうして、当社は東京での取引市場
                                             販売強化を目論んだ。しかし長年築き上げた商流の壁はやはり厚く、                                                           を少しずつ拡大していった。
                                             同時期に撤退した問屋の商圏の一部を確保するのが精一杯であっ
                                             た。                                                                                        北海道・東北地方の開拓                                                                                         CHRONICLE

                                               このように亜鉛鉄板の拡販は難航したが、釘・針金などの商品に
                                             関しては元来大阪が大きな供給地となっていたためむしろ歓迎さ                                                               東京出張所の設置後、北海道の開拓は東京の管轄となり、函館の
     CHRONICLE
                                             れ、得意先を集めた親睦会の結成へとつなげることができた。会員                                                            山木小林銅鉄店 (現・株式会社ヤマキ小林) 、帯広の三原商店など、有                                                                  Ⅰ
                                                                                   つのはず                                                                                                                                                     片山栄 の 時代 そ 一 と
                                             は大田区大森の株式会社井上商店、新宿区角筈の株式会社天下屋鉄                                                            力な問屋との取引が始まった。
                                             店、同区百人町の三和金属株式会社、同区西大久保の小西金物株式                                                              山木小林銅鉄店は函館を中心に道南地区で大きな力を持つ専門販
                                             会社、中野区高円寺の田中金属株式会社、杉並区下高井戸の株式会                                                            売店で、亜鉛鉄板の売上は道南でトップであった。三原商店はすで
                                             社小野鉄、豊島区池袋の株式会社梅田鉄店、板橋区板橋の星亀金物                                                            に東京や大阪の有力な問屋と取引をしており、後に当社とも深い結

                                             鉄鋼株式会社などで、「山の手片山会」と命名された。命名の理由                                                            びつきができていく店である。                                                                                      Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 ら へ か 日 本全国
                                             は定かではないが、実際に山手線沿線にあるのは池袋梅田鉄店だけ                                                              山木小林銅鉄店では、取引先の板金店を集めて「ヤマキ会」を結成
                                             だったから、東京でいう「下町」に対しての「山の手方面」という意味                                                          していた。毎年2月、ヤマキ会は道南の温泉に1泊して交流を築いて

                                             ではないかと思われる。                                                                               おり、当社も川崎製鉄などメーカーの責任者を同行して参加し、板
                                                                                                                                       金店との信頼関係を深めていった。

                                                                                                  E.K                                    営業先は東京や地元大手問屋からの仕入れ実績がある店ばかり                                                                       片山鉄建 Ⅲ
             COLUMN-     13      扇印金属タイル                                                                                               で、受注にこぎつけるのは難しかった。そこで、いったん受注があ                                                                      精神 の
                                                                                                                                       ると、その商売を絶やさないように、地区担当者は原則として毎月1

                   金属タイルを生んだ安田金属工業の原点                        した。当社がその販売を一手に担い、扇印ブ                                                      度は訪問した。まず何よりも顔を合わせて商売を深める。このよう
                 は、1917(大正6)年、安田彦右衛門氏が大阪                     ランドで市場に送り出したのも同年のことで                                                      な取り組みが、「片山は親切だ」と評判を呼んだ。当時の交通事情は
                 市北区木幡町で開店したささやかな個人商店                        ある。扇印は縁起のよい末広がりの扇を表す。                                                                                                                                                         Ⅳ
                 にある。その後、1924年に北区末広町に移転                      会社の所在地である末広町の地名に由来する                                                                                                                                                           近年 の 片山鉄建
                 し、樋などの生産を開始。1934(昭和9)年に                     と同時に、社名に含まれる「安」の字を崩すと
                 法人組織に改組して合名会社安田彦商店が誕                        扇のように見えるということも、採用された
                 生し、戦時中に当社最大のヒット商品となる                        理由であった。
                 金属タイルを開発していた。                 扇印金属タイルは一世を風靡し、一時は商

                   安田彦商店は1950年10月に安田金属株                      業施設やホテルの内外装、一般住宅の厨房な
                 式会社に改組。金属タイルに改良を加え、碁                        どでも多く見られた。競合他社が同種の商品                                                                                                                                                          第 2
                 盤縞模様の製品を1952年に発売して好評を                       の販売攻勢をかけ、競争が激しくなったが、                                                                                                                                                          章
                 博し、翌1953年7月に通商産業省軽工業局                       18-8ステンレスをサービスで付けて販売す                                                                                                                                                         を 築 く 全国 に 拠点
                 長賞を受賞した。これを受けて同社は設備の                        るなどで対応。また、それに伴って扇印金属
                 近代化、合理化を図り、1955年に静電塗装に                      タイルの改良が進み、安田金属の技術力も向
                 よるオートメーション式塗装専門工場を設置                        上していった。

                                                                                                                                       「みちのく片山会」での熱海旅行(1959 年 10 月)




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