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1953 1960
沿革編 沿革編
船町の倉庫に在庫し、単品売りにも対応して、神田を中心に1.5t 程 防府出張所の開設
度の三輪貨物で朝昼晩の3回配送を行うまでになった。
当社の金属タイルの販売姿勢は、陶器タイルの出来上がり価格を 業界再編が急速に進むなか、徳山鉄板は1953 (昭和28) 年に大阪鉄
常に対比ポイントとした。陶器タイルは基礎から違う工法で、防水 板製造と合併して日本鉄板株式会社となり、 1959年にはさらに日
はもちろんのこと立派な高級レベルのものである。金属タイルは見 本鉄板が日亜製鋼株式会社と合併して日新製鋼株式会社 (現・日新
た目こそ似ているが、それを模した商品で、 6枚で1坪程度の大きさ 日鉄製鋼株式会社) が発足することとなった。
になる。当時の陶器タイルは1坪6,000円ほどであったが、金属タ 当社の徳山出張所は、徳山鉄板が生産する亜鉛鉄板の出荷に関す
イルで代用すればその3分の1以下の価格で済む。原価はさらに安 る連絡業務を行うために設立されたが、その役割は次第に変わって CHRONICLE
価であったから、当社も取引先も十分すぎるほどの利益が確保でき いった。統制撤廃以降は周辺地域への二次製品販売を開始し、大阪
た。 から送られてきた釘・針金のほか、亜鉛鉄板では月星印、七ツ星印、
CHRONICLE
東京以外の地域開拓においても金属タイルは有力なアイテムとな リバー印、波板では富士製鉄や八幡製鉄の商品なども扱うことに Ⅰ
札幌出張所の事務所にて越後(1956 年) 片山栄 の 時代 そ 一 と
り、その好調な販売を受けて得意先の組織化が進められた。東京と なった。しかし、 1950年代半ばになると業界の再編が亜鉛鉄板にも
大阪では、それぞれ東京扇会、大阪扇会が誕生した。東京扇会の加盟 及び、メーカーが直営商社を興して地方問屋に直売する傾向が強く
店は宮下商店、小林金属加工、東京商会、大西鋼業、西山鋼業、石井 なったため、その対抗策として、当社は徳山出張所をよりビジネス
千代吉商店、金吉商店、横浜の鈴鹿商店など10社程度で、安田金属 に有利な地域へ移すことにした。
の工場見学や有馬温泉での宿泊旅行に招待するなど、活発な活動を 移転先については広島県広島市と山口県防府市が候補に挙がった Ⅱ
大阪 日 本全国 へ か ら
通して大いに結束を強めた。東京出張所にとっては、扇会でのさま が、検討の末、 1956年5月に防府へと移転することとなり、国鉄三
ざまな出会いが二次製品のみならず、広く鉄鋼業界での知名度を上 田尻駅 (現・JR 西日本防府駅) 前で営業していた取引先・長宗商店の
げる良いきっかけとなった。 紹介により防府市宮市中市の吉村時計店の大部分を借り受けること
にした。やがて徳山周辺に石油コンビナートが造られると、それに
安田金属の工場 札幌出張所の展開 つれてビジネスも活況を呈するようになり社員も増えた。徳山・小 片山鉄建 Ⅲ
郡・山口などへはスクーターを使用して出張したが、当時は道路が の 精神
1956 (昭和31) 年4月、札幌市中央区北3条東の柳田ビルに札幌出 未舗装で、自動車とすれ違うと砂ぼこりで髪が真っ白になったとい
張所を設置した。広さは5坪足らずで、狭い事務所内には机4脚と書 う。
棚が置かれた。柳田ビルはサッポロビール札幌工場 (現・サッポロファ
クトリー) の北側にあり、札幌駅から近く交通の便も良かった。 Ⅳ
出張所が開設されたことで、販売担当は大阪、東京からはるばる 近年 の 片山鉄建
来るのではなく、北海道居住者としてきめ細かい営業ができるよう
になった。とはいえ、当時は札幌・小樽の大手問屋とは付き合いが
なく、函館・旭川・北見・帯広・釧路などへ足を延ばして商売を拡
大していった。倉庫は、小樽や釧路の貸し倉庫を使用していた。と
はいえ、降雪と寒さで工事ができない冬季には商売がほとんどでき 第
なかったため、代わりに商品説明会などを行って宣伝に努めた。 2
章
しばらくすると、川崎製鉄系の問屋が続々と拠点を置き始めた。
築 く に 全国 を 拠点
1958年に下村商店と川鉄商事、 1960年に梅本商行が拠点を置い
たことでライバルが出揃い、得意先の切り崩しも激しくなっていっ
た。同出張所は、その後1966年に札幌営業所となり、北海道での
札幌出張所の設置届
事業展開における重要な拠点となっていく。 移転後の防府出張所
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