Page 45 - 00_片山鉄建様_表紙
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1953 1960

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             今日のように発達しておらず、東京から東北に出掛ける場合は、か                                                            扇印金属タイルの拡販
                                             なり長期の泊まりがけになる。競合他社のなかには当社のように、

                                             毎月東北の得意先を訪問するところはなかったのである。当社は「山                                                             1956 (昭和31) 年に八丁堀4丁目へ移転した東京出張所の事務所
                                             の手片山会」と同じ要領で、東北にも「みちのく片山会」を結成して                                                           は、敷地が約55坪で、 1階は事務所、 2階は世帯持ちの社員寮となっ

                                             得意先を組織し、時期をうかがいながらその地方の地盤に深く入り、                                                           ていた。また建物の横に通路があり、奥には釘などを保管する小さ
                                             月々の商売を親しみの深まりとともに伸ばしていった。                                                                 な倉庫があった。その後、社員の増加に伴って改築を行い、応接室や
                                               積雪の厳しい北海道と東北では、外装や屋根にトタン板が多く使                                                           電話交換室を新設した。 2階には社員寮として20畳ほどの大部屋と
                                             用され、着実な売上が期待できる。両地域の市場開拓は、トタン板の                                                           3つの個室を設け、 20名ほどの社員の住まいとした。                                                                          CHRONICLE

                                             コンスタントな売上が基本となる商流を作り上げた。                                                                    この時期の課題は、やはり金属タイルの拡販であった。
                                                                                                                                         東京出張所が亜鉛鉄板の販売に苦戦したのは、メーカーの系列化
     CHRONICLE
                                             入船町倉庫の設置                                                                                  という壁があったからだが、金属タイルならば系列を気にせず、ど                                                                       片山栄 Ⅰ と 一 の 時代 そ

                                                                                                                                       の店にも遠慮なく売ることができる。そこで、関東の問屋に次々と
                                               開設後、しばらく業績が振るわなかった東京出張所では、事態を                                                           金属タイルを売り込み、末端の金物店にも10種類ほどの現物サンプ
                                             打開すべく模索を続けていた。そのようなときに、所長の茂のもと                                                            ルを並べた看板を持参して店舗に展示してもらった。金属タイルが
                                             に業界の知人を通して「安田金属がビジネスのパートナーを探して                                                            銀座の店舗に使用されたと聞いて、現場を撮影して写真を配布した

                                             いる」という情報がもたらされた。                                                                          こともあった。そして、東京亜鉛鍍金が展開したレヂノ鉄板の広告                                                                      Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 日 本全国 ら か へ
                                               1955 (昭和30) 年、販売が開始された際の金属タイルのサイズは2                                                     戦略を参考に、地下鉄の中吊りや窓際の額面広告、さらにテレビの
                                             尺╳3尺で1梱包50枚入り。その重量は約75㎏で釘樽よりも重く
                                                                                                                                                                                                                              E.K
                                             なった。
                                                                                                                                         COLUMN-     14      昭和30年代の神田・八丁堀
                                               同年に入船町 (現・中央区入船) に新しい倉庫を設け、もともとあっ
                                             た木造2階建ての建物はそのまま使用した。 1階は玄関脇に小部屋                                                                                                                                                               Ⅲ
                                                                                                                                               東京では1964(昭和39)年のオリンピック                    て赤鳩印の製品以外に月星印も扱っていた。                               片山鉄建 の 精神
                                             と10坪ほどの食堂、奥に6帖の部屋と洗面所など、 2階に3室ある和
                                                                                                                                              開催に向けて都市整備が進み、鉄や建材の需                         このほかにも神田・八丁堀の問屋街では多
                                             室は独身寮として使用していた。出張所開設当初は世田谷区代田に
                                                                                                                                              要が急増するとともに業界も活気を帯びた。                       くの二次製品卸問屋がしのぎを削っていた。
                                             住んでいた4名が引っ越し、食事を提供するために賄いの女性を雇
                                                                                                                                               すでに述べたように、亜鉛鉄板では東日本                         神田周辺には、先に挙げた野崎栄蔵商店、
                                             い入れた。食糧不足の時代、「安心して働け、腹いっぱい飯は食わせ                                                                  を中心に赤鳩印がブランドを確立しており、                       紀繁商事のほか、高木商店、宮下商店(後の宮
                                             る」という初代からの方針は、東京でも実行された。                                                                         森岡興業、野崎栄蔵商店、紀繁商事といった大                      鋼)、高橋金属、藤井順平商店、大西鋼業、東                             Ⅳ
                                                                                                                                                                  きのしげ
                                                                                                                                              問屋3社が東日本全域の商流を一手に担って                       京商会、服部商店、増田建材、稲垣商店などが                              近年 片山鉄建 の
                                                                                                                                              いた。                                        あった。

                                                                                                                                               森岡興業は東京亜鉛鍍金の経営にも参加し                         八丁堀には二次製品も扱う問屋として小針
                                                                                                                                              ていた東京の老舗・森岡商店が改名したもの                       商店、鈴康産業、佐藤鉄鋼があり、戦前より鉄
                                                                                                                                              で、中心部の昭和通り・江戸橋に店舗を構え、                      の流通を一手に担って政商と呼ばれた木下産
                                                                                                                                              後に伊藤忠商事が吸収合併した。                            商や、1953年に徳山鉄板と大阪鉄板製造が
                                                                                                                                               野崎栄蔵商店は日本橋大伝馬町に店舗を構                       合併して誕生した日本鉄板(現・日鉄日新製                              第 2
                                                                                                                                              える鉄鋼二次製品の大卸問屋で、赤鳩印の販                       鋼)も社屋を構えていた。さらに、上野には東                             章
                                                                                                                                              売でトップクラスの実績を上げていた。また、                      京線材製品(現・トーセン)と協和商会があっ                             拠点 に 全国 く 築 を

                                                                                                                                              東北地方での販売を得意としていた。                          た。
                                                                                                                                               東京・関東の二次製品大手問屋である神田                         当社の東京出張所は、これらの企業と取引
                                                                                                                                              金物通の紀繁商事は、メーカーの系列を超え                       をしながら少しずつ勢いをつけていった。
                                             入船町に設けた倉庫




        086  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  087
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