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た ち 者 創 業 創業者 ち た
Aphorism 2
第 2 代社長 社長就任から商号変更の頃 人柄について
片 山 栄 三 ● 京都大学の工業化学科はいわゆる「応用化 ● ユーモアで場を和ませる才気を持ち合わせ 「 肖像
Eizo Katayama, 1925-2008 学」を教えており、栄三も一般企業の研究所 ていた。 2
に就職が内定していた。しかし、卒業を目前 ● 俳句・絵画に親しみ、書道も名人級の腕前で
に控えた1953 (昭和28) 年1月20日に、父・ あった。現在も使われている社名ロゴは、「片」
栄一が急逝。栄三は、一般企業の内定を辞 も「鉄」も通常の文字でなく、意味合いを考え
Profile 退して片山商店に入社し、学生でありながら たうえでの栄三のオリジナルである。
1925 (大正14) 年9月15日生まれ。兵庫県立神戸 社長に就任することになった。 ● 文才にも恵まれ、栄三自身が執筆して1975 APHORISM
の 一中 (現・神戸高校) 卒業後、旧制三高 (現・京都大 「兄貴はよく勉強ができた。そのまま親父が (昭和50) 年9月より取引先に発送された
学工学部) 工業化学科に入学。
長生きしてくれたら研究職の道に行っていた
「E.K ジャーナル」「E.K ひろば」は多くの
肖 像 1953 (昭和28) 年2月、片山商店に入社し、社長に と思う」と、第3 代社長の茂は言う。 片山栄三ファン、片山鉄建ファンを獲得した。
就任。商売の経験はゼロだったが、弟の茂とともに、
創業者の急逝による危機を切り抜け、全国展開を
開始した。 ● 商売の経験のなかった栄三は、社長であり
1990 (平成2) 年2月には社長職を弟の茂に委ねて ながら若い社員とともに、倉庫で釘樽を担い
会長に就任。 2005 (平成17) 年2月に相談役に退く で仕事を覚えていった。
が、その後も実質的に指揮を執った。 ● 時代はまさに業界の再編期。多くの問屋が
2008 (平成20) 年5月28日、逝去。享年82。 55年
間、会社のトップとして活躍した。 消え去る運命にあった。片山商店の行く手
にもさまざまな危機が待ち受けていたが、専
務に就任した北神嘉信と協力して守りきり、
学で学ぶが、戦後になり、「もう一度勉強をや さらなる発展に向けて着実に布石を打って
生い立ち
り直したい」と父・栄一に申し出て旧制三高 いった。 ● 業界関係者から受勲の推薦を何度も受けた
● 創業者・栄一の第一子として大阪で生まれ (現・京都大学) の工学部工業化学科へと進 ● 1969 (昭和44) 年8月1日、片山鉄建に商号 が、権威を振りかざすのを嫌い、「私は勲章
る。長男でありながら栄三と名づけられたの む。そのため、卒業時は27歳になっていた。 変更する。「立売堀のバラック精神」「片山 はいらない」と辞退した。部下に対しても「凡
は、祖父・栄吉から数えて「栄」吉・「栄」一・ ● 神戸一中は、同学年に全国一になったサッ 艦隊」などの言葉で社員を鼓舞しつつ、大手 人は嘘をつくな。本当に頭のいい人間は嘘を
「栄」三と、「栄」の字のつく3 代目という意 カー部の選手が多く、当時まだ珍しいスポー 商社に対抗しうる組織づくりを進めるととも 通せるが、そうでなければ必ずばれるものだ」
味合いからであった。 ツであったサッカーが盛んだった。旧制三高、 に、西部線材製品卸商業組合理事長や親商 と教え、傲慢を戒めた。
● 利発で勉強好きな子であったが、戦争中は十 新制京都大学とサッカー部に所属し、卒業後 会会長なども歴任。 ● 現在監査役である三男の誠三は、父・栄一
分に勉学ができる環境になかった。兵庫県立 も毎年、東京の一高対京都三高卒業生同士 亡きあと、親代わりとなって育ててもらった栄
神戸一中 (現・神戸高校) 卒業後は東京の大 のサッカー試合に選手として参加していた。 三に、「ビジネスマンとして必要な心得」とし
て、次の3つを教示してもらったエピソードを
妻・直子とご挨拶まわりに 片山商店創立記念日に六甲にて
(1962年8月8日)
欧米一周へ旅立つ栄三(1957年10月30日)
栄三3歳のとき、乳母と(1928年) 信貴山にて。清子4歳、栄三6歳(1931年)
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