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Chapter1
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沿革編 沿革編
第 章 1961 1968 らば、「中間卸は必要ではない」という声が上がるのも仕方のないこ
(昭和 43)年
(昭和 36)年
とであろう。そこで業界においては、日本鉄板が西日本から北陸・
る み ぐ 工 事 指 目 て し 受 の を 注 高度経済成長と問屋無用論 中京方面に及ぶ地域で地方問屋への直販を開始するなど、問屋の存
在意義に疑問を呈する動きが現実化しつつあった。専門商社は生き
残りをかけて、新しい在り方を模索し始めることになる。
1961 (昭和36) 年11月、池田勇人内閣は10年間で所得を倍増する
「所得倍増計画」を打ち出した。 1964年の東京オリンピックや東海 工事部門への進出
道新幹線の開通などに向けて急ピッチで整備開発計画が進展するな CHRONICLE
かで、日本は本格的な高度経済成長時代へと歩みを進めた。 当社のような専門商社と、高炉メーカーや総合商社のような大企
ちょうどこの時期にベストセラーとなったのが、東京大学の林周 業との大きな違いは、機動力にある。例えば、さまざまなメーカーの
CHRONICLE
二助教授の著書『流通革命』 (中公新書、 1962年) である。林助教授 商品をひとまとめにして納品するといったサービスを行うのは、大 Ⅰ
片山栄 時代 と 一 の そ
は「日本の流通システムが欧米から著しく遅れており、大きな無駄 企業にとって容易ではない。その一方で、専門商社は小回りが利き
と非効率を抱えている」と指摘し、零細小売業や中間流通の存在が やすく、より密着したサービスを最終ユーザーに提供することが可
価格の高どまりの原因になっているとしたが、出版時期がダイエー 能である。このように、ワンストップで仕入れができる便利さ、そし
やイトーヨーカドーなどのスーパーの勃興期と重なったこともあ て親切さが、当社が今日まで続く大きな理由の一つとなっている。
り、その考えは「問屋無用論」に発展する形で経済界に大きなインパ 当社は従来、流通を通してユーザーと密接な関係を築き上げてき Ⅱ
大阪 本全国 へ 日 か ら
クトを与えた。 た。要望があればトタン板 (平板、波板) 、釘、針金、小鋲類、ルーフィ
鉄鋼関連においても「問屋無用論」は高まり、高炉メーカーと需要 ング、ターフェルト (建材ラス材) など当社で買える商品を買いつな
家が直接結びついていく契機にもなった。戦後、造船や自動車など ぎ、少量の場合にも他店との混載などの手段を講じて貨車やトラッ
の産業が日本経済を牽引していたが、そのような業界において大量 クで出荷してきた。
かつ継続的に同じ厚板が販売されるならば、問屋を通すよりも高炉 そのようなワンストップのサービスをさらに一歩進め、屋根・壁 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
メーカーから直販を行ったほうが需要家の希望が直接伝わり、品質 工事の請負にまで拡げたのが、工事部の開設であった。建築需要が
や価格面に反映させやすいという利点がある。 高まるなかで、需要家から工事込みでの依頼について要望が出るよ
実際に、亜鉛鉄板の販売においても、地方の大問屋などでは商品 うになっていたためである。工事部ではいくつもの板金業者に工事
を定期的にメーカーから末端の金物店に直送する形で商売をすると を手配し、ユーザーと図面や見積もり、進捗の打ち合わせから現場
ころが見られた。メーカーと販売先の間に入るだけで口銭を取るな の管理までのすべてを行った。利益率が非常に高い半面、日々の工 Ⅳ
近年 の 片山鉄建
第
1
章
み 工 ぐ る 事
「
て し 受注 を 目指
社屋前にて(2 列目左から 4 人目が栄三社長、5 人目が北神専務) 左・片山茂、右・片山栄三社長。この頃の貴重なツーショット H 形鋼
100 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 101