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1961 1968
沿革編 沿革編
需要家課の設置 ゼネコン、プラント関連需要の開拓
1960年代半ばまでの当社の売上は、そのほとんどが問屋との取 需要家課における初期の活動について、後に専務を務めた阪本吉
引で占められていたが、需要家からの受注がなかったというわけで 成はこう語る。
はない。例えば、三井金属鉱業株式会社・住友金属鉱山株式会社・
大阪ガス株式会社といった得意先があった。 「たわらやの合併で入社してこられた方々が営業に出て行かれる
戦後しばらくの間は鉱業が非常に盛んであったため、坑道を支え のを見て、なぜ自分はいつまでも倉庫を担当しているのか、自分も
るための丸釘・かすがい・針金・なまし鉄線・網などが必要であった。 早く営業に出たいと社長にかけあったのが始まりでした。新規開拓 CHRONICLE
そこで愛媛県の新居浜には住友金属鉱山も出資して別子大丸が出店 の担当になることが決まってからは、肥後橋の大手企業に行って『う
しており、この百貨店において別子銅山で必要とされる資材の購買 ちは大阪で一番の問屋です』と言いながら売り歩いたものです」
CHRONICLE
を行っていた。また、当時の大阪ガスでは石炭を蒸して都市ガスを Ⅰ
片山栄 と 一 時代 の そ
供給しており、その煤煙が施設の屋根などに使用される鉄板を腐朽 肥後橋界隈には清水建設株式会社・明星工業株式会社・安藤建設
させたため、そのメンテナンス用資材が必要とされた。とはいえ、需 株式会社・日立造船株式会社・日本冷熱工産株式会社、また本町に
要家が当社の売上に占める割合はまだ微々たるものであった。 株式会社竹中工務店、東区京橋 (現・北浜東) に株式会社大林組があっ
当社ではたわらやとの合併直後に、需要家からの直需を扱う需要 た。当時は、高度経済成長のただなかで、東京オリンピックから大阪
家課が設置された。需要家に向けて積極的に営業活動を行い、新規 万博に至る大型プロジェクトが目白押しであった上、建築工法が今 Ⅱ
大阪 日 ら か 本全国 へ
開拓を進めていく部署を設けたのはこれが初めてのことであった。 日のように進んでいなかったため、建設現場では釘、なまし鉄線な 釘
需要家課の課員は、倉庫での修業を終えたばかりで営業経験のな どの仮設材が大量に必要とされ、品質と価格に優れていればいくら
い若者1名のみであった。課の設立にあたり、栄三社長は「どこに何 でも受注できた。なかなか取引ができなかった企業からようやく試
を売ってもよい」と課員に言い渡し、大阪ガス・大阪長尺屋根・三 し受注があったときには、わずか2時間で商品を納品して驚かせた
井金属鉱業・住友金属鉱山など、従来からの得意先をいくつか担当 こともあった。 Ⅲ
片山鉄建 の 精神
させた。 こうしてゼネコンやプラント関連企業の得意先が急速に増え、清
かね き ちく わ
水建設の兼喜会、竹中工務店の竹和会といった協力会社の集まりに
も参加できるようになった需要家課は、やがて当社事業の大きな柱 なまし鉄線
へと成長していった。
Ⅳ
プラント関連受注の高まり 近年 片山鉄建 の
日本の工業化はみるみるうちに進み、太平洋沿岸に立ち並ぶ京浜、
中京、阪神、北九州の四大工業地帯を含む一帯が「太平洋ベルト」と
称されるようになった。工業地帯はその周辺へと拡大したが、急速
な工業化による騒音、煤煙、水質汚染などの公害が社会問題となり、 第
1967 (昭和42) 年に公害対策基本法、 1970年に水質汚濁防止法が 1
章
公布され、 1971年には環境庁が設置された。
ぐ 事 る み 工
需要家課の名前が見られる大阪営業所 1972 年の一般管理費予算表 プラントのパイプには熱湯や蒸気、油などが通るため、その保護
や保温のための資材が欠かせない。そこで明星工業、関西保温工業
「
株式会社などの現場では、カラー鉄板、亜鉛鉄板、ステンレス板など て し 受注 目指 を
の外装材を中心に需要が急増した。
110 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 111