Page 62 - 00_片山鉄建様_表紙
P. 62
1969 1978
沿革編 沿革編
そのような時代を迎えるにあたり、栄三社長は、数字を追い求め 「諸君、世間を眺めて御覧なさい。みんな外見だけにとらわれて、
る以上に大切なものがあると感じていた。 潜水艦や駆逐艦は巡洋艦になりたがり巡洋艦は戦艦や航空母艦にな
りたがってせっせと図体や体裁だけ大きくしたが結果はどうか。少
「これからは『つくっても売れぬ、売れても儲からぬ』時代なる故 し嵐がひどくなると外見だけの戦艦や航空母艦はものの見事に大き
にこそ、経営者の経営力、経営責任に非常に大きなウェイトがかけ な腹を見せてバタバタひっくり返っているではないか。然るに醜い
られて来よう。企業経営上、貸借対照表や損益計算書以外にもっと 腹を見せている戦艦や空母のかたわらを小さなキャッチャーボート
もっと大切なものがある。即ち経営者、従業員、得意先、信用歴史で が涼しい顔で颯爽と荒波を蹴立てて走って行く。いったいどっちの
ある。」 (『片山ニュース』 1968年7月~ 8月) 船が立派なのだろう。どっちの船が国家社会のために貢献する船な CHRONICLE
んだろう。」 (『いずみ』 3号、 1966年1月)
片山鉄建の組織論
CHRONICLE
E.K 片山栄 Ⅰ
社名変更に伴い、 1969 (昭和44) 年9月に組織改革が行われた。そ COLUMN- 21 玉島工場の建設 時代 の そ 一 と
の組織図には栄三社長の組織論が書き添えられている。要点は以下
のようなものであった。 「着色亜鉛鉄板は、昭和30年代後半から 続亜鉛メッキ設備を建設する計画が立ち上
徐々に生産が伸びはじめ、殊に39年以降の数 がった。それには従来の千葉工場に加えて玉
・片山艦隊活動の3本柱は営業・経理・労務である。 年間に4倍以上の急増をみせて、44年には94 島工場を設けることで、高度経済成長期のプ Ⅱ
此の3本柱を明確にする為に夫々取締役担当を明確にすると共 万トンに達した」という記述が、1974(昭和 ラント建設需要に応える狙いもあったよう 大阪 日 か ら 本全国 へ
に、此の3本柱の考えを社長から末端迄貫いて行く。 49)年版『鉄鋼二次製品年鑑』に見られる。当 だ。玉島工場は1970年4月に起工式を行い、
社においても、近畿、四国、中国地区有力特約 まだ建設中であった1971年7月に試運転に
店で結成した「片山会」の総会を宮崎などの観 よる生産を開始した。
栄三社長は、片山艦隊という言葉をよく使用した。例えば、『いず
光地で開き、結束を固めて積極的な販売を進 玉島工場の操業に伴って、同社の東京工場
み』 3号には次の文章が見られる。 Ⅲ
めていた。 及び大阪工場は閉鎖となった。 片山鉄建 の 精神
しかし、川鉄鋼板の斎藤実社長が亜鉛鉄板、 また、1970年に亜鉛鉄板、着色亜鉛鉄板の
カラー鉄板について「最近は鉄鋼製品のなか JIS が改正され、1971年4月より新しい JIS
でも万年不況製品の汚名を蒙っている」と『片 による製品が製造販売されることになった。
山ニュース』1968年1月~ 2月号において 新製品では亜鉛付着量が増やされるととも
語っているように、利益の面からみると、必 に、原板の塗膜性能の向上が図られた。亜鉛 Ⅳ
ずしも満足のいくものではなかった。汚名を 鉄板の品質改善は、その後も継続して進めて 近年 の 片山鉄建
返上するためには、品質向上と価格の安定が いくことになる。
必須である。品質については、1967年に亜鉛
鉄板、1968年にカラー鉄板に関する新 JIS
が公布されたことで意識の向上が促されると
し、価格については、「大手メーカーのコイル
価格政策や生産調整、独禁法などさまざまな 第 2
難問があるものの、安定した体制が樹立でき 章
ないことはあり得ない」というのが斎藤社長 「「
の意見であった。 鉄建
1969年の川崎製鉄水島製鉄所操業を受け 「
1973 年の「片山会」総会にて(岐阜県長良川ホテル) 挑戦
て、川鉄鋼板でも岡山県倉敷市玉島乙島に連
1969 年の組織図
120 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 121