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1969 1978
沿革編 沿革編
同じ万国博会場内にありながら、それぞれのパビリオンは別のプ との辞令を出し、工事部全員が大阪長尺屋根に出向する形で経営
ロジェクトと考えられており、設計や施工はもちろんのこと、納品 の再建に着手した。
書、請求書の発行に至るまで個別に行う必要があった。また、さまざ 新体制への移行を機として、大阪長尺屋根は東大阪市金物町の
まな板金加工業者が工事を分担していたため、当社需要家課は昼夜 3階建ての社屋に移転した。この土地は、栄三社長が将来の事業計
を問わず会場を飛び回っていたという。万国博は1970年3月から 画に備えて買収していたもので、 1階に機械を置いて資材の加工を
開催され、入場者数は延べ6,400万人にも上った。 行ったほか、宿泊施設も併設していた。
当社は昭和30年代以降、各地で有力販売店の集まりである「片山 まさしくこの時期に、ボウリング・ブームが始まった。ボウリン
工事中のソ連館
会」を結成しており、 1970 (昭和45) 年3月23、 24日には初めての全 グのスコアは、従来、プレイヤー自身がつけなければならなかった CHRONICLE
国合同総会を開催した。 23日に川崎製鉄水島製鉄所の見学、続いて が、 1970年末頃に自動的に計算する機能を持った設備の導入が始
岡山県・鷲羽山の下電ホテルで懇談会を開き、翌24日は大阪府に まった頃からボウリング場が急増し、その数は最盛期に3,880を超
CHRONICLE
て万国博の見学を行った。集まった片山会の会員は210名。また当 えたと言われる。 1971年にはプロボウラー・中山律子氏が注目さ Ⅰ
片山栄 一 時代 と の そ
社から栄三社長以下30名、川崎製鉄から14名が参加した。 れ、テレビ CM にも登場した。
その後当社は、工場、ガレージ、体育館、校舎、倉庫関連の営業展 新体制になって間もない大阪長尺屋根は、多くのボウリング場建
開を推し進め、資材の販売のみならず、設計図面、構造計算書の作成 設を請け負った。ボウリング場の開店ラッシュが続くなか、大阪長
などの技術サービスや施工も行う方針を打ち出していったが、万国 尺屋根も過密な工期スケジュールと戦いながら、さまざまな形状の
「全国合同片山会」川崎製鉄水島製鉄所見学
博のパビリオンを手掛けた実績は、拡販にあたって大いに役立った。 建物に挑戦した。ボウリング場のデザインは、当時としては斬新な Ⅱ
大阪 日 本全国 へ か ら
ものが多く、板金加工業者にとっては腕の見せ所となっていた。
大阪長尺屋根株式会社の再建 大阪長尺屋根の業績は数年のうちに見違えるほど回復したが、石 大阪長尺屋根が請け負った安佐ボウル(広島県)
油ショック後の不況など、さまざまな事情で1980年頃に事業整理
当社のきょうだい会社となって以降、大阪長尺屋根は大阪で屈指 され、当社の板金部として事業を継承した。
の工事業者に成長したが、 1960年代半ばになると過当競争により業 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
績に陰りが見えるようになった。そこで、栄三社長は1971 (昭和46) バックヤードの充実
年8月に
「よく上長を補佐し 1960年代後半には、鉄鋼需要の半数近くを建設関係が占めるよう
社員相互の和を配慮し になった。従来の問屋を対象としたビジネスは、定期的に商品が売
業績向上に努め れる一方で口銭は2~ 3%程度。一方のゼネコンなどの需要家を対象 Ⅳ
以って同社再建に全力を挙げて貰いたい」 としたビジネスは利幅がよく、口銭は10%程度に上り、工事物件が 近年 片山鉄建 の
あるときには大量の受注を見込むことができた。ただし、工事の遅延
が起きないことを前提として即納体制が求められるため、いつでも
防府営業所に増築した倉庫
トラックが使用できるように配備しておく必要があるなど、手間が
かかる側面もあった。独自の小回りのきくビジネスを進めるには、商
品を常時ストックできるような体制づくりを進める必要があった。 第
1968 (昭和43) 年、防府市千日1丁目の防府営業所のほど近くに、 2
章
敷地面積1,159㎡に402㎡の平屋建ての倉庫を建設、その後1982年
「「
に574㎡増築した。
鉄建
大阪では立売堀倉庫に線材二次製品、新町倉庫に亜鉛鉄板、立葉 「
町倉庫に丸棒が保管されていた。出荷には2、 3カ所の倉庫を移動し 挑戦
川崎製鉄水島製鉄所見学記念「全国合同片山会」(1970 年 3 月 23 日) なければならないうえに、積み下ろしの際には倉庫前の路上にト
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