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1969 1978
沿革編 沿革編
故紙業界の開拓 栄三社長はこれを受け止め、事業展開については福岡営業所長の考
えに任せることにした。
故紙業界には、リサイクルに使用する新聞紙や雑誌、段ボールな 他社との差別化を図るため、営業担当者は丸棒の専門知識を深く
どを、 1m×1m×2m の立方体に圧縮梱包する業務があり、従来は 研究し、その知識力をもってゼネコンの開拓に奔走した。当時の事
前近代的な三方締 (手作業) で梱包作業を行っていたが、第1次石油 務所は実につましいものであり、また、徒歩40分もかかる場所に貸
ショック前後の時期に自動機械化する計画を進めていた。 し倉庫を借り、商品の積み下ろしを行う際は、営業所で社員をトラッ
1975 (昭和50) 年、大阪で初めて国産自動機械1号機が導入される クに乗せてから倉庫に走らせていた。そこで、 1974 (昭和49) 年には
という情報を得意先の鉄工所 (株式会社但馬鉄建) から得て、当社需要 福岡市博多区奈良屋町1丁目のヤシマ博多ビルに営業所を移転、同 CHRONICLE
家課はさっそく吹田市の株式会社福井商店に向かった。なまし鉄線 時に福岡市中央区那の津5丁目に1,250㎡の倉庫を建てた。
(当初は針金) を用いて自動梱包するベーラーマシンという機械を目 新しい倉庫は、博多湾に面する須崎埠頭の岸壁に面していた。鉄
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の当たりにし、これはビジネスになる可能性を確信する。 は潮風にさらされると錆を生じるため、鉄製品の長期間保管には向 Ⅰ
片山栄 の 時代 そ 一 と
自動機は、一つの梱包につき5㎏程度のなまし鉄線が使用される かない環境ではあったが、回転の速い商品である丸棒を扱うには大
ため、月間では約5t が必要になる。しかも、福井祥夫社長によれば きな支障はなく、むしろ岸壁からクレーンで商品を搬入できるとい
関西地区の故紙業界では毎月1台ペースでべーラーが導入される予 う利点があった。福岡営業所は、この倉庫に東京製鉄株式会社の製
定だという。 品である異形丸鋼を約1万 t 在庫して拡販を進めた。
需要家課は、競合他社がこの動きを察知する前にベーラーメー 福岡営業所の業績は劇的な改善を遂げ、年間100億円規模の売 Ⅱ
大阪 日 ら へ 本全国 か
カー(渡辺鉄工株式会社) とも親密になり、故紙業界への営業を推し 上を見せるようになる。 1980年には1974年に建てた倉庫と同じ
進め、市場を独占することに成功した。故紙業界の業績は景気変動 場所にある3,525㎡の敷地に床面積1,520㎡の新倉庫を建設し、
にあまり左右されないため、ベーラーの設置は順調に増え続け、 2 旧倉庫と合わせて広さ1,000坪、収容能力2万 t 規模へと拡大して
~ 3年で約30台が稼働するまでになった。これにより、当社は石油 バックヤードの充実を図った。 福岡営業所が入ったヤシマ博多ビル
ショック後の不況にありながら年間で合計1,000t 前後のなまし鉄 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
線の安定受注を確保することができた。決済もすべて現金であるた 矢口産業の倒産と、片山土木資材の設立
め、与信面での問題も一切生じることがなかった。
故紙業者は大阪府下をはじめ、兵庫・京都・奈良・和歌山地区な 第1次石油ショックにより高度経済成長期は終わり、日本経済は
ど、関西周辺に大小約40社が存在し、業者団体である関西プレス共 成熟期を迎えた。 1970年代後半には日本の自動車産業が健闘し、
同組合とも親密な関係を築き、後発の他社ライバルを寄せ付けない 鉄鋼産業が息を吹き返すが、日本の粗鋼生産量がピークを迎えた Ⅳ
関係を作り上げていった。現在もこの構図は変わらない。 1973 (昭和48) 年の実績を超えるまでには至らなかった。 近年 片山鉄建 の
当社はこの時期にいくつもの決断を迫られている。なかでも
福岡営業所の独自展開 1975年に起こった矢口産業の倒産は、事業の見直しを余儀なくさ
れるほどの大きな影響を当社に及ぼした。矢口産業は大きな納入実
福岡営業所では亜鉛鉄板の販売に全力を注いだが、その努力はな 績を持つ得意先であると同時に、当社の売上に大きく寄与した利益
かなか報われず赤字が続いていた。 商品であるカベラス、シートラスの仕入先でもあったため、その穴 第
既存勢力の切り崩しが困難であると判断した福岡営業所は、 1970 をどう埋めていくかも課題となった。 2
章
年代前半に主力商品を亜鉛鉄板から丸棒へと転換した。丸棒の市況 1976年には、資材を取り扱っていた土木鋼材課を独立させて、
「「
は亜鉛鉄板・釘・針金と比較して変動が激しく、第1次石油ショッ 片山土木資材株式会社を設立した。トンネル工事など、回収までの
鉄建
クでは通常の3倍にまで価格が跳ね上がっている。これは相場の暴 期間が長引きがちな得意先が多く、採算が見えにくいという問題が 「
落があり得ることも意味しており、決して失敗ができない決断で あったため、独立採算による合理的な経営としたのである。しかし、 挑戦
丸棒 あった。堅実経営を進めてきた当社としては異色の事業であったが、 同社は利益を生むことなく数年のうちに解散することとなる。
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