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Chapter 3
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沿革編 沿革編
第 章 1979 1989 サビナシルーフとの出合い
(平成元)年
(昭和 54)年
ヨーロッパの建築では古くより亜鉛が用いられており、一般的な
新 素 求 て め 材 法 を 工 ・ 新 建設業“冬の時代” 建材として定着している。亜鉛製品は経年にしたがって独特の風合
いを醸し出すようになるが、その正体は亜鉛と空気中の酸素が反応
1979 (昭和54) 年、前年に始まったイラン革命により第2次石油 してできた酸化皮膜で、亜鉛を腐食から保護する役割を担っている。
ショックが起こると、“ 省エネ ” が時代のキーワードとなった。そ 1970年代末、三井金属鉱業の社内に亜鉛鉄板に関する研究会が
の影響は建設業に及び、公共投資が抑制されて1980年代半ばまで 設けられ、社外からは唯一、東京支店長の片山茂が参加することと CHRONICLE
尾を引く長い “ 冬の時代 ” を迎えた。 なった。同社は亜鉛の輸入販売大手で、川崎製鉄の亜鉛鉄板に用い
カラー亜鉛鉄板の市況は1980年をピークに低下し続ける一方 られる亜鉛を供給していたことから、当社との間に情報交換の下地
CHRONICLE
で、線材二次製品メーカーも中小企業近代化促進法に基づく不況業 が存在した。そこで、新商材に関心を持っていた茂は、研究会設立の Ⅰ
片山栄 一 時代 と の そ
種の指定を受ける事態に陥り、構造改善事業を実施しつつ、ひたす 情報を運よく耳にしたのである。
ら耐え忍ぶ日々が続いた。また、後継者問題などを抱える金物店の 研究会ではヨーロッパにおける亜鉛建材の歴史を学び、またフラ
ほんでん
店じまいが目立ち始めたのもこの時期で、立売堀の西に広がる本田 ンスへの視察が行われた。そして、帰国後に亜鉛を99.5%使用した
地域に存在した金物店の多くも姿を消していった。 新製品「サビナシルーフ」の商品化が進められた。
業界では不況を背景に、小口ビジネスへと手を伸ばす競合他社が 1980 (昭和55) 年、サビナシルーフの発売にあたり、三井金属鉱業 Ⅱ
大阪 か ら 日 本全国 へ
相次いだ。当社においても、地方の特約店を担当する第1チーム、需 は子会社数社を中心に窓口会社を組織し、外部では唯一、当社が窓
要家を担当する第2チームに続くものとして、小口配送にも対応する 口を務めることになった。
第3チームを設け、東大阪鋼材センター内に「東店」を新設して大阪府 1983年には、特約店を通して、徳島中央市場の12,000㎡に及
下や伊丹など兵庫県の一部の特約店を対象に小口配送を展開した。 ぶ屋根改修にサビナシルーフが採用された。その受注金額は1億円
ただ、このような戦略も、状況を打開できるようなものからは程 規模に上るもので、受注にあたっては、大阪長尺屋根で培った知識 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
遠く、需要家の取り込みを地道に進めること以外には方策が見当た と技術をもとに具体的な提案を実施したことが、特約店の信頼を獲
らないというのが現実だった。有望な新商品を探し出すのも大きな 得する大きな鍵となった。
課題であった。 しかし、実際に工事をしてみると、「永遠に錆びない」「メンテナ
ンスフリー」といった長所を打ち出していたにも関わらず、温度変
化で伸縮することによる金属疲労の発生や、鉄との接触による腐食 Ⅳ
など、サビナシルーフの隠れた弱点が次々と明るみに出てクレーム 近年 片山鉄建 の
対応に奔走することとなった。
また、徳島中央市場が徳島空港の飛行ルートの直下にあり、サビ
ナシルーフの銀白色が上空に反射して運行の妨げとなることが判明
し、航空法に抵触しないように当初の想定にはなかったリン酸塩加
サビナシルーフ施工マニュアル
工を施して反射を抑える必要も生じた。 第
サビナシルーフは、その名のとおり「永遠に錆びない」耐候性を全 3
章
面に打ち出すとともに、フランスから輸入した原材料に国内でリン
め て 求 工 新素材・新 を 法
酸塩加工処理を施すことで、経年変化を待たずして日本人に好まれ
るような風合いを実現した。
価格の面においても、放っておいて売れる商品ではなかった。原
1981 年頃の東大阪鋼材センター。左から大橋、吉田、目片、岩崎 料が高価なうえに手間もかけているため、従来の建材と比較すると
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