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1979 1989

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             円高不況のなかで                                                                                  1985 (昭和60) 年秋からの急速な円高にあたっては、それ以前に増し
                                                                                                                                       て鉄鋼需要、新築着工件数が低迷したため、 1987年度には中期経営

                                               1980年代半ばには重厚長大産業が下火となり、軽薄短小時代が                                                          計画書をまとめて全社の思想統一へと舵を切った。第1次中期経営計
                                             到来した。また、欧米諸国がインフレ抑制のために金融の引き締め                                                            画書には「『超日本一ユニークな問屋』というテーマは環境変化の激し

                                             を行うとともに、国鉄の民営化に見られるような自由化旋風も巻き                                                            い今日こそ重大な意味を持つ」との言葉を見ることができる。
                                             起こり、多くの企業が経営の見直しを迫られることとなった。その                                                              第1次中期経営計画で、当社は最も得意とする亜鉛鉄板の販売を
                                             結果、余剰人員対策として経営の多角化を進める動きが活発となり、                                                           中心に据えた「板主力主義」を打ち出すとともに、新規需要家開拓の
                                             高炉メーカーにも多くの関連会社が誕生した。そのような時代を、                                                            ため、ステンレスやラミネート鋼板、プリント鋼板などの高意匠性                                                                      CHRONICLE

                                             栄三社長は『E.K ひろば』でこう描写している。                                                                  鋼板 (マルチ製品) の拡販を進めた。 1980年代前半の低迷期に、鋼板
                                                                                                                                       メーカーはガルバリウム、ガルタイトなどの研究を進め、その後、日
     CHRONICLE
                                              「マクロ (総平均) の数値など何の意味もありません。業種間格差、                                                        新製鋼の ZAM (ザム) 、新日本製鉄 (現・日本製鉄) のスーパーダイマ、                                                             Ⅰ
                                                                                                                                                                                                                                            片山栄 の 時代 一 と そ
                                             企業間格差は、猛烈なスピードで開いて行きます。オチオチしては                                                            JFE 鋼板の JFE エコガルなど、耐食性の高い新商品を続々と開発し
                                             おられない厳しい生き残り競争、これが昭和還暦の時代背景である                                                            ていた。また、ステンレス建材にモリブデンなどの元素を添加して、
                                             と思います。」 (『E.K ひろば』 1985年1月20日)                                                            耐食性を高めた素材が登場していた。
                                                                                                                                         需要がより高級化・多様化するなかで、高付加価値の素材にかけ

                                               住宅着工件数が低下するなかで、カラー鉄板は供給過剰に陥って                                                           る期待は大きく、川鉄鋼板でも販売強化を推し進めていた。当社に                                                                      Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 日 本全国 か へ ら
                                             いた。業界ではこの事態に対応すべく協議し、 1984 (昭和59) 年1                                                      おいても、「これからの商品」という位置づけで、その拡販に取り組
                                             月から減産を開始したが、メーカーの足並みが揃わず、結果的には                                                            むこととなった。

                                             増産となるなど混乱を招いただけに終わった。                                                                       一方で、 1980年代には安価な労働力を武器として韓国・台湾を
                                               熾烈な生き残り競争のなかで、栄三社長は営業担当者に「現場ま                                                           中心にアジア経済が大きな盛り上がりを見せた。円高が続くなか、
                                                                                                                                                                                     リンカンチン
                                             で出かけて行って、商売を創れ」と檄を飛ばした。                                                                   当社も安価な製品をアジアに求め、 1987年頃より林漢錱氏が経営                                                                    Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 の 精神
                                                                                                                                       する台湾企業・翊亨有限公司と取引を開始して線材製品の輸入に取
                                              「弊社の営業マンが御得意先の営業担当の方と一緒に現場まで赴                                                            り組んだ。
                                             いて、現場の情報から問題点を見つけ出し、共に考え共に工夫して、

                                             会社を挙げて一歩でも半歩でも現場の問題解決に当たり、御得意先                                                            農業分野への参入
                                             の販売促進に寄与する、これが私の云う『商売を創る』ことなので                                                                                                                                                                Ⅳ
                                             す。」 (『E.K ひろば』 1985年1月20日)                                                                  食品大手キッコーマン株式会社のワインブランドである「マンズ                                                                      近年 片山鉄建 の
                                                                                                                                       ワイン」では、ブドウやさくらんぼについての栽培法を模索するな

                                               また、栄三社長は「ピンチはチャンスである」という言葉も残して                                                          かで、果樹園に針金やパイプを設置し、透明の防雨フィルムを被せ
                                             いる。クレームは、普段は入ることができないお客様のバックヤー                                                            る仕組みにたどりついた。こうすることで、太陽光を十分に受ける
                                             ドの内部を見せてもらえるチャンスでもある。いずれにしても、机                                                            ことができるだけでなく、雨を防ぎ、しかも風通しがよく、乾燥状態

                                             に向かっているだけでは何も始まらないというのが栄三社長の考え                                                            が保てると考えたのである。 1987 (昭和62) 年、当社は山梨の得意先                                                               第
                                             であった。                                                                                     の紹介からマンズワインと出合い、共同にてその後の開発・資材販                                                                      3
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                                                                                                                       売を行っていくことになった。
                                                                                                                                                                                                                                           法 工 新素材・新 を て め 求
                                             新素材の登場                                                                                      従来のブドウ栽培は「棚栽培」と「垣根栽培」が主流で、それぞれに
                                                                                                                                       利点があった。棚栽培ではブドウの実が地上1m 以上の位置にでき
                                               地方での営業展開において、当社ではそれぞれの営業所に事業方針                                                          るため雨による湿気は防げるが、作業効率が悪いという側面がある。
           この頃、東京営業所で行われていた営業強化のた
           めの研修会(大宮自衛隊駐屯地にて)                 を任せてきた。その社風は今日に至るまで引き継がれている。だが、                                                           一方、垣根栽培は収穫しやすい反面、湿気が生じてブドウが腐敗し                                 マンズ・レインカットを採用した果樹園




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