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Chapter 2
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沿革編 沿革編
第 章 1969 1978 年を機に作成された『満零才からスタートする片山鉄建株式会社の
(昭和 53)年
(昭和 44)年
行く手』には、次のような言葉が見られる。
片 戦 山 の 挑 鉄 建 新社名「片山鉄建」への変更 「現在、日本経済は年間10 ~ 12%の成長をしております。即ち日
本の全平均が10 ~ 12%と云う事ですから、若し片山鉄建の成長が
1968 (昭和43) 年、当社は念願の米国法人「E.KATAYAMA & 10~ 12%なら人並みであり、 10~ 12%以上になって初めて成長し
CO.,(AMERICA)INC.」を設立し、文字どおり世界へと羽ばたい た事に成り、 10%以下なら寧ろ後退している事になります。世界中
E.K バッジ
た。そして翌1969年8月1日に片山鉄建株式会社と社名を改め、同 が年々成長しているのですから、企業個々もやはり成長しなければ CHRONICLE
日に東京・大阪それぞれの地区で創立50周年記念行事を企画し、 なりません。」 (『満零才からスタートする片山鉄建株式会社の行く手』)
箱根小涌園 (神奈川県) 、びわ湖温泉ホテル紅葉 (滋賀県) などで式典を
CHRONICLE
行った。 タイトルの「満零才」という言葉にも、以下のような意味が込めら Ⅰ
片山栄 と 一 の そ 時代
社名については社内公募も行ったが、「鉄の流通を建設業界へ拡 れていた。
げていきたい」という考えのもとに、栄三社長自身の案で「鉄建」と 「“ これでよい ” とあぐらをかいた時に、人間でも企業でもその成
いう表現を採用した。 長は止まってしまいます。人間は無限の可能性を持っています。に
書道に長けた栄三社長らしく、社名ロゴには独特の字体が採用さ も拘わらず “ これでよい ” と思う安易感は此の可能性を放棄してし
れた。「片」もそうであるが、「鉄」の字は「金」と「矢」の組み合わせと まう事であり、成長が止まるという事はとりもなおさず老化滅亡を Ⅱ
大阪 日 ら 本全国 へ か
なっており、通常の字体とかなり異なっている。これは「金」を「失う」 意味するものであります。
のではよくないという発想から来たものである。 片山鉄建50年の輝かしい歴史を尚一層繁栄に結びつける為に、
当社は片山商店の時代から鉄骨工事、板金工事に進出するなど、 私は茲に全社員諸君と共に
従来の商社の枠を超えた付加価値の高いサービスを目指していた。 『零才からのスタート』
新社名はその方向性をさらに推し進めていこうという決意を反映し の気概を持ちたいと思うのであります。お互いに戸籍年令が何才 Ⅲ
『満零才からスタートする片山鉄建株式会社の 片山鉄建 の 精神
たものとなった。 だって構わない。私達は今生まれかわって新しい人生の第一歩を踏 行く手』表紙
新体制の発足と同時に、『片山鉄建満零才5 ヶ年計画』が発表され み出したのだと云う気概を持って、一致団結、片山艦隊の素晴らし
た。この計画は、収益性、成長性、安定性の3要素についてしっかり い勝利繁栄を勝ちとろうではありませんか。」
とした基盤を築き上げつつ、 1969年以降の5年間で売上、粗利益
率、付加価値、給与を2倍にすることを目標としていた。創業50周 しかし、国内に70万社あると言われる企業のなかで半分が欠損会 Ⅳ
社であり、負債1,000万円以上の倒産件数が年々増えているという 近年 片山鉄建 の
現実もあった。同時期の資料で、栄三社長は次のように語っている。
「戦争で灰燼に帰した吾が国が当時想像も出来なかった今日の繁
栄に迄漕ぎつける間はすべての商品は幾らつくっても足りなかっ
た。従って品物は何によらず『つくれば売れるし売れば儲かる』時代 第
新たに採用されたロゴ であった。これが昭和30年代迄の姿であった様に思われる。その 箱根小涌園での創立 50 周年記念行事 2
(1969 年 8 月1日)
章
意味では昭和30年代迄は『戦後』であったかも知れない。
「「
昭和40年代に入って依然様相は一変した。『つくっても売れ
鉄建
ぬ。売れても儲からぬ』時代に突入したのである。」 (『片山ニュース』 「
1968年7月~ 8月) 挑戦
びわ湖温泉ホテル紅葉での創立 50 周年記念行事(1969 年 8 月 1 日)
116 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 117