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1961 1968

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編

                                             矢口式シートラス                                                                                  たわらやとの合併
                                               1型:  鉄骨造、防火・耐火構造の住宅、工場、倉庫の外、屋根、床用

                                                     一山重ね工法で施工が早い                                                                        1964 (昭和39) 年3月、当社は株式会社たわらやを合併し、 8月に
                                               2型:  工場、倉庫の外壁、屋根、床用                                                                     資本金を4,020万円に増資した。

                                                     馳締式であるため、防水性に優れている                                                                  たわらやは戦前より当社に勤務した俵谷武が1948年に独立・創
                                                                                                                                       業した店舗で、その取扱商品はメーカーこそ違うものの当社と大差
                                               モルタル式壁の下地材カベラスの最盛期で、矢口産業は販売窓口                                                           なかった。独立の相談を受けた栄一社長は俵谷を気遣い、当社の若
                                             を当社、神田の野崎栄蔵商店、中尾金太郎商店の3社として「カベラ                                                           手のなかから「君が欲しい男を連れて行ってもよい」と話して有能な                                                                     CHRONICLE

                                             ス会」を結成するとともに、原材料の亜鉛鉄板をカベラスの販売量                                                            社員1名の転籍を許した。また、独立後も親身になってたわらやの
                                             に応じて買う条件を出した。つまり、商社にとっては、たくさん売れ                                                           援助を行ったという。
     CHRONICLE
                                             ばそれだけ多くの原料を矢口産業に納入できるということになる。                                                              その後15年を経て、後継者問題などを考慮した末に、俵谷は廃業                                                                    Ⅰ
                                                                                                                                                                                                                                            片山栄 時代 の 一 と そ
                                             各社は競い合って販売し、当社も東京はもとより特に大阪、仙台と                                                            の意志を固めたが、山陽道や四国、九州で広く営業活動を行い、業
                                             一致協力して拡販に努めた。                                                                             績も悪くなかったため、得意先や社員の今後に関する対処が課題と
                                                                                                                                       なっていた。
                                             松戸倉庫の開設                                                                                     そこで、協議の結果、当社がたわらやを合併し、その得意先、社員

                                                                                                                                       を引き継ぐこととなった。その際に当社に転籍した7、 8名の社員に                                                                    Ⅱ
                                                                                                                                                                                                                                            大阪 日 ら か へ 本全国
                                               東京ではオリンピックに向けた都市開発が急速に進められた。都                                                           は、俵谷自身も含まれていた。                                                 たわらやとの合併報告書
                                             市の発展と自動車の普及により交通量が増加すると、東京支店が所

                                             在する京橋・日本橋・八丁堀界隈で渋滞が発生するとともに駐車禁                                                            創立 50 周年への目標
                                             止や一方通行などの規制が厳しくなり、入船町の倉庫では配送業務
                                             に不便を感じることも増えてきた。また、当社の倉庫もちょうど余                                                              1965 (昭和40) 年度からは当社の基礎作りを目標に掲げた5カ年計                                                               Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 の 精神
                                             裕がなくなってきたところで、何らかの対策が必要な時期に差し掛                                                            画が始まり、創立50周年に向けての目標も発表された。その内容は、
                                             かっていた。                                                                                    1969年に年商100億円、資本金1億円、社員170名とするほか、新潟、
                                               この頃、同業者のなかには、郊外に倉庫とともに店舗を新設して                                                           水島、釧路、米国ロサンゼルスに営業所を開設、本社ビル建設、各営

                                             周辺地域の営業にあたるところが現れ始めた。浦安鉄鋼センターの                                                            業所に成型加工場を新設することなどが盛り込まれていた。
                                             整備が計画されたのはこの時期である。                                                                          栄三社長は1960年頃に日本青年会議所の一員として欧米の視                                                                     Ⅳ
                                               この流れに呼応し、当社は1961 (昭和36) 年に倉庫用地として千葉                                                     察に参加。その際に訪れたロサンゼルスに「信念のような」直感を受                                                                      近年 片山鉄建 の
                                                                                                                                                                                                      栄三社長、欧米一周へ出発
                                             県松戸市上本郷の田んぼ700坪を買収し、その後、さらに買い増し                                                           けて以来、現地に営業所を出すことが夢になったという。
                                             を行った。水戸街道沿いとはいえ、買収した当時は自動車が立ち入                                                              栄三社長がロサンゼルスに魅せられた理由は3つあった。まずそ
                                             るとは思えないような場所であったが、幸運にも周辺が北松戸工業                                                            の広さである。ニューヨークには摩天楼が立ち並んでいるが、それ
                                             団地として整備されることに決まり、整備計画により土地の一部が                                                            は大阪の中之島と同じで土地が狭いからである。一方、当時のロサ

                                             削られ、結果として面積は約800坪となった。                                                                    ンゼルスに高層ビルがほとんどなかったのは、広々とした土地がど                                                                      第
                                               1962年9月、この敷地に120坪の倉庫が竣工した。倉庫の建物は                                                        こまでも広がり、上に伸びる必要がないからである。そして、第2の                                                                     1
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                             間口10間、奥行き12間程度の広さ、建物はすべてトタン張りで窓                                                           理由としてその良好な気候、第3の理由として荷揚げ設備の完備し
                                                                                                                                                                                                                                           る み ぐ 工 事
                                             が少ない平屋であった。敷地は三方を道路に囲まれており、その北                                                            た大きな港があること、の3点が挙げられる。工機工場、自動車工場
                                                                                                                                                                                                      栄三社長が魅せられたロサンゼルス視察
                                             西部分に建物を建てたが、まだ多くの土地が残されていたため、適                                                            などが軒を並べているのも、優れた港があってこそである。
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                             宜建て増しすることで将来の物流増加に対応していくことが可能と                                                              そして、栄三社長は次のように語っている。                                                                              し て 目指 受注 を

                                             なっていた。                                                                                     「特に面白いのはロスが第二次世界大戦以後めざましく発展して




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