Page 41 - 00_片山鉄建様_表紙
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E・K                                                               さら学校に行くわけにもいかない                                           焼けてしまって、とにかく商売しよ                 したから、そういった意味での生                                                    E
        インタビュー                                       富山から、                   し、 5人きょうだいで男は1人でし                                         うとバラック建てを造って拡張し                  活費は一銭もいらない。それで月                                                    . K
            Ⅰ                                寮がある片山商店に入社                     たから、どちらにしても後を継がな                                          ていた時代でしたね。                       給6,000円をもらっていました。                                                  ー タ ビ ュ イ ン

                                                                             ければいけない。そこで、しばらく                                                                           ほかの会社の社員がうらやむほど
                                            片山茂会長(以下、片山) 精田                  大阪で修業したいと両親に言った                                          「飯が食えたらいい」時代に、                    給料が良かった。金属タイルが売
                                            建鉄さんは、数少ない栄一時代か                  のです。                                                        3食付いて月給6,000円                  れていたこともあったと思います。                                                    Ⅰ
                                            らの取引先です。当社は100周年                   大阪に行くことについて、両親                                                                           片山 金属タイルは、よく儲かりま
                                            を迎えましたが、精田さんの会社                  は猛反対でした。親族会議で説                                                                             した。トタン板の利益は1.5%か、
                                            も伝統がありますね。                       得しましたが、「寮があって、監                                           精田 事務所はコールタールを                   よくて2.5%。釘針金を混ぜても
                                            精田隆芳氏(以下、精田) 祖父                  督できるところにしろ」と言う。「ア                                         塗った鉄板でできていて、 2階に                 3%といったところでしたが、金属
                                            の時代から私で3代目、 2018 (平              パート住まいはダメだ、一人だと                                           寮がありました。寮は、 6畳2間                 タイルの利益は、何割という単位                  1955 年当時の給与明細                    INTERVIEW
                                                                    (
                                            成30) 年で110周年になります。 )             何をするかわからん」と言うので                                           だったかな。天井も仕切りもベニ                  でした。
                                                                      ↓




                                                                  昭和30年代の                                                              片山商店を語る



                                                                  株式会社精田建鉄

                                                                  代表取締役会長      精 田  隆 芳 氏                                                            進行/片 山  茂 会長



                                                                             すね。そこで片山さんへ入社させ                                           ヤ板1枚だから、音などが隣の部                   これに味をしめて、利益の高い
                                                                             ていただいたのです。寮もあるし、                                          屋に筒抜けで、プライバシーなん                  ものを一緒に売れということにな
                                                                             隅田さん   (注1) が住んでおられること                                    てないわけです。その代わり、 3食                り、「YP 工」      という合言葉ま
                                                                                                                                                                                   (注3)
                                                                             をどこかから聞いたようです。つま                                          付き。「飯が食えたらいい」という                 でできたのです。
                                                                             り、隅田さんが監督みたいなもの                                           時代に、ご飯を腹いっぱい食べる
                                                                             で (笑) 。                                                   ことができました。寮生以外の社                   新町倉庫での暑い作業と、
                                                                             片山 ああ、隅田さんはあの頃、                                           員にも、昼食が出されていました。                   第二室戸台風の思い出
                                                                             奥に住んでいたのかな。                                               片山 漬物が山のように積んで
                                                                              戦争中、事務所の奥に目が不                                            あって、それを直に箸で取って食べ
                                                                             自由な祖父 (栄吉) と、賄いの女性                                        ていたでしょう? あの食べ方は、                 精田 片山さんにいた当時、 1年
                                                                             が住んでいる建物がありました。                                           芦屋の家と一緒だったんですよ。                  間ぐらい新町倉庫に通っていまし

                                           ( ↓  )                            地方からのお客様があるとその2                                           精田 ぼくらの頃は、もう麦飯で                  た。
           Profile :Takayoshi Seida         片山 10年先輩なんですね。精                  階に泊まっていただくため、床の                                           した。 3食食べさせてもらって、作                 新町倉庫は亜鉛鉄板を保管し
                                            田会長は若い頃、当社で仕事をし                  間や掛け軸がある、上等な造りで                                           業服も全部洗濯屋に出してくれま                  ていて、そこに「発生品」が届くん
           1908 (明治41)年に富山市東四十物町にて
           創業した精田建鉄(創業時は精田商店)の第             ておられたわけですが、入社され                  した。
           3代社長。 1973 (昭和48)年に就任し、 2012
          (平成24)年に代表取締役会長となる。当社             たのは何年頃でしたか。                       その名残りで、終戦後も、当時
           とは、栄一社長時代からのつきあい。現在の             精田 1957 (昭和32) 年です。そ             隅田さんが住んでおられたところ
           本社所在地は富山市問屋町で、社員数は113
           名。                               の年の初夏に栄三さんが結婚さ                   には、きちんとした建物が建てら
                                            れて、鉄鋼会館で開かれた披露                   れていました。
                                            宴に伺った覚えがあります。                    精田 そういえば、最初に来た頃
                                               入社までの私がどうしていたか                は、南京虫   (注2) に悩まされたもので
                                            と言えば、高校2年のときに結核                  した。
                                                                                                                                                                                                         注1.  隅田芳正。戦時中は天津片山洋行で活躍。戦後は、
                                            を患い、あと1日休んだら卒業で                  片山 どうもすみません、ひどいと                                                                                                                徳山出張所の開設などに尽力した
                                                                                                                                                                                                         注2.  トコジラミの別名
                                            きないところまで休みました。今                  ころで (笑) 。戦争前の建物が全部                                                                                                          注3.  Y は安田金属、P は ”profit”,”plus” で利益商品、
                                                                                                                                       家族のようにアットホームだった(1950 ~ 1960 年代)                                       工は工事受注



        078  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  079
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