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Chapter2
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沿革編 沿革編
第 章 1953 1960 東京亜鉛鍍金が色鮮やかな「レヂノ鉄板」を開発。レヂノ鉄板は高度
(昭和 35)年
(昭和 28)年
経済成長の進展とともに、業界の主力商品へと成長していく。
当社が関東で亜鉛鉄板を販売するのは至難の業で、「うちは親子
国 全 を 築 く に 拠 点 全国網の形成 三代、赤鳩印だから」といって、川鉄製品を勧めても取りつく島がな
いありさまであった。赤鳩印が強い土地柄ならば赤鳩印を売ればよ
当社は1953 (昭和28) 年12月に東京出張所を開設。これを皮切 いのだが、その商流もすでに確立されており、当社が分け入る隙が
りに、 1956年に札幌、防府、 1959年に福岡、 1961年に仙台に拠 なかった。戦前より東京亜鉛鍍金とともに歩んできた大手問屋が東
点を置き、全国網を形成していった。 京には数社あり、東京に出店したばかりの片山商店が値引きを中心 CHRONICLE
出張所の営業方針について、栄三は現地の意見をできるだけ聞き、 に食い込もうとしても果たせるものではなかったのである。
トラブルが発生した場合も現地の判断を尊重した。そのようにして むしろ「大阪から来ておかしな動きをしている会社がある」と噂に
CHRONICLE
自立を促した結果、それぞれの独自性が開花し、出張所が互いに競 なり、値段により売り込もうとする当社の動きは、関東の歴史ある Ⅰ
片山栄 時代 の と そ 一
い合いながら地域性に富んだビジネスの形を形成していった。 常識にそぐわず、北神専務がたびたび東京亜鉛鍍金に呼び出され、
厳しい注意を受けた。
東京出張所の設置
「時には無駄足を踏み、時には僅かな注文を心から喜んだもので
1953 (昭和28) 年11月、北神専務から東京出張所開設の指示を受 す。悔しかったことをいうと、地方を訪問して『大阪の片山商店です』 Ⅱ
大阪 ら 日 本全国 か へ
けた茂は東京に急行し、下北沢の下宿屋を拠点として事務所と宿舎 と云っても『何やさんですか?』と鼻であしらわれた時でしょう。」
の手配に動いた。そして、富士製鉄製品を取り扱う商社で、日本橋三 (『いずみ』 2号、 1965年12月)
越前の薬品問屋街に社屋を構えていた富永物産株式会社・東京支店
(東京都中央区日本橋室町) のビル入り口付近に1坪ほどの空間を借り 同じ頃、亜鉛鉄板の生産において高炉メーカーの技術革新が始ま
受け、間仕切りをして2つの机を置いた。これが現・東京営業所の発 り、八幡製鉄で溶融亜鉛メッキ設備や電気亜鉛メッキ設備が導入さ Ⅲ
片山鉄建 精神 の
端である。茂にはほとんど営業経験がなかったため、当初は下辻正 れたのに続き、 1955年度には富士製鉄も亜鉛メッキ鋼板の製造に
雄が出張所長を務めた。 参入している。
最初に受けた訪問は、当社が東京に出店したと聞き、はるばる北
海道女満別町から訪れた朝鳥金物店の社長・朝鳥氏であった。室町
の薬問屋のなかから、机2つの片山商店東京出張所を探すのは大変 Ⅳ
なことだっただろう。 近年 片山鉄建 の
茂は1953年12月に東京出張所の所長となった。新川の越前堀 (現・
新川2丁目あたり。 P88の地図参照) に倉庫を借り、関東地区の開拓を
本格的に始めたのもこの頃であった。
出張所の開設当初、大阪から異動した少人数の社員は世田谷区代
田にある50坪の木造住宅に住み、人数分の弁当を持って一緒に京王 第
井の頭線経由で八丁堀まで通勤した。 2
章
く 築 に 全国 を 拠点
「山の手片山会」の結成
1955 (昭和30) 年より2年半にわたる神武景気を迎えると、建設需
要は急増し、建設資材の販売も好調な業績を見せた。 1953年には、 後の主力商品となる「レヂノ鉄板」の広告
082 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 083