Page 35 - 00_片山鉄建様_表紙
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会社も倉庫もすべて消失した時、栄一は「商 と叫び続けていたのが栄一だった。
売続行!」と、おんぼろバラックを建てる。こ ● 新しい自由な経営姿勢が発揮できるように
れは木造のボロボロの建物なのだが、「事 なった栄一の決断は、素晴らしいものであっ
務所などは贅沢しなくてもいい。倉庫や在 た。普通、商売を拡げるのは、近くからだん
庫、人にお金をかけなさい」と。これが「バラッ だん遠くに及ぶものだが、東・北は東北・
ク精神」という、片山イズムの一つになる。 北海道から、西・南は九州の最南端から商
● 戦後、統制経済から自由経済に移った1948 売を開始した。どこに行っても拡販のできる
(昭和23) 年~ 1949年からが、「片山商店 時、若い営業担当者を遠い地域に配属し、 II
の第2創業期」だと第3代社長の茂は言う。 得意先開拓を始めた。そしてその流れは、次
それまでの日本の商売は闇取引が蔓延して の時代に受け継がれ、現在に至っている。
いたが、「そういう経済警察のご厄介になる
ことは1トンたりともしたらあきません!」とい
晩年の栄一
うのが、会社の方針としての栄一の厳命だっ
た。 ● 戦前より「仕入先を大切にしなければいけ 大阪から
闇取引で儲けても、結局は立ちゆかなくな ない」との考え方を基本にしており、晩年には
る会社が山ほどある中で、「いずれこんなア 「川崎製鉄との取引を大切に」と社員に言い 日本全国へ
ホみたいな商売 (統制経済) はなくなる」「我々 聞かせていた。
の思うように自由に商売ができる時が来る」 ● 朝鮮戦争による特需景気が終焉を迎え、不
景気になった1953 (昭和28) 年1月20日に
56 歳で急逝。その前年まで、栄一社長は、
亜鉛鉄板西部問屋組合 (現・全国ファイン
スチール流通協議会) 初代理事長を務めるな 第 1 章
ど、片山商店を全国的なトタン板を扱う大手
の問屋として、西の親分のような存在にまで 片山栄三社長の就任
成長させていた。創業者であり、大黒柱だっ
た栄一社長の死は、片山商店100 年の歴史 第 2 章
においても最大のピンチで、会社の空気は止
むを得ないことだが沈滞した。それほど偉大 全国に拠点を築く
な創業者だった。
E・K インタビューⅠ
昭和20年代の事務所にて
昭和30年代の片山商店を語る
Aphorism 2
創業者たちの肖像 片山 栄三
父・栄吉の葬儀にて。右端が栄一(1951年)
父・栄吉の葬儀での片山家遺族
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