Page 30 - 00_片山鉄建様_表紙
P. 30
1946 1949
沿革編 沿革編
円、利益は500万円で、完納後も2年間受注が継続した。 事務所は2階建てで、表には「合名会社 片山栄一商店」と書か
1946年11月には、東大阪市南荘町に角線・半月線などの異形 れた大きな看板が掛かっていた。建物の屋根と壁には錆止め用に
線材を生産する会社として栄鋼業株式会社を設立した。戦時中、上 コールタールを塗ったナマコ板 (トタン波板) が採用され、間口は4間
海片山洋行で行っていた線材加工を、栄一は「無駄のない商売」であ (7.3m) ほどであった。入り口は4枚扉で両脇に戸袋があり、内装は
ると考え、戦後も引き続き線材二次加工の生産を行うことにしたの ベニヤ板。 1階は営業のための事務所、 2階は寮となった。
である。戦前より片山商店に勤務し、幼い栄三次期社長の子守役も 事務所にはほとんど窓がなく、伝票などの書類が飛び散ってしま
務めた田端新蔵が栄鋼業の初代社長に就任した。 うため、夏も扇風機は使わなかった。そのため、事務所での仕事姿の
また、かつて大陸に馳せた夢を引き継ぐべく当社内に貿易部も設 男性のなかには、ランニングシャツにステテコ、下駄履きという人 CHRONICLE
置したが、これについては大きなビジネスに発展することはなかっ も見受けられた。また、寒さの厳しい冬場には火鉢で暖を取った。
た。
CHRONICLE
倉庫業務を通じて物流を学ぶ 片山栄 Ⅰ そ と 一 の 時代
バラック社屋の建設
バラック社屋が完成した当初は、事務所東隣の表通り側のみに倉
終戦後、当社は住友銀行立売堀支店の一部を間借りして営業を続 庫を設けていたが、 1947 (昭和22) 年10月、その奥に新倉庫が増築
けた。焼け跡にはバラック倉庫が一棟あり、焼けただれた釘抜き機 された。後には社屋の西隣にも倉庫が建設されることになる。西隣
や、団子状になった焼け釘が倉庫の後ろに野積みされていた。 の倉庫は鋼板の倉庫、東隣北側の倉庫は釘の倉庫となり、その南に Ⅱ
大阪 日 へ 本全国 か ら
立売堀周辺は日生病院を除くとほぼ焼け跡であったが、しばらく 雑品倉庫、電話交換室が造られた。
すると事務所や倉庫の整備が始まった。立売堀北通4丁目・5丁目 倉庫はまさしく修業の場であり、若い社員たちは作業を通じて商
から薩摩堀東之町にかけて、機械工具関連業者などが協力し、 1946 品、得意先、製品別のメーカーを知り、物流を学んだ。時には厳しさ
(昭和21) 年10月に30店の店舗が建設された。本来の地主が不明の に音を上げて退社する者もあったという。
まま、やむをえず工事を進めたところもあった。 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
翌年には立売堀北通4丁目に当社社屋が完成した。岡崎橋にあっ
た印刷業者に九州から規格型の木材を取り寄せるあてがあり、それ
を建材に用いて建設したという。建設にあたり印刷業者に支払われ
た費用は5万円であった。
Ⅳ
近年 片山鉄建 の
第
2
章
跡 け 焼
「
ら ラ ッ ク バ か
倉庫前にて。上段川村、下段左から村上、栗尾、野坂、阪本(写真は 1964 年) 1947 年の立売堀新町復興図。右下 13 番が片山栄一商店(出典:立売堀新町振興会編『立売堀新町振興会十年史』1956 年)
056 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 057