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1919 1945

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                             立売堀北通 4 丁目への移転                                                                                                                                                                   E.K


                                                                                                                                         COLUMN-     3     社屋の焼失
                                               1935 (昭和10) 年には立売堀・新町周辺の問屋は1,000軒を超え
                                             ていたというが、鉄鋼の取り扱いができる問屋は限られていたよう
                                                                                                                                               1945(昭和20)年3月13日から14日にか                   ないけれど『煙が目に沁みる』のである。何し
                                             だ。 1936年1月、大阪における市場取引の7割を占める大手4問屋
                                                                                                                                              けての空襲について、『新修大阪市史第7巻』                      ろ街はまだボンボン燃えている。何のことは
                                             の統合により大阪鋼材株式会社が設立されると、これに対抗する5                                                                   に「大阪中央放送局は、13日夜9時のニュー                      ない、大きな焚き火の火の中をくぐって歩い
                                             問屋による日本鉄鋼興業が翌1937年に設立され、業界の2大勢力が                                                                 スの後で『今夜にも敵機は大阪に来襲するか                       ている訳だ。現在の地下鉄三号線(四ツ橋線)
                                             形成された。                                                                                           も知れません』と述べ、防火防空用意の点検を                      沿いに、テクテク焚き火の中を歩いて東立売                              CHRONICLE

                                               大阪鋼材が設立された1936年1月に日本はロンドン軍縮会議か                                                                 促す注意を放送していた。警戒警報が発令さ                       堀迄来た時、私は一瞬躊躇した。立売堀北通
                                             ら脱退し、 2月には二・二六事件が発生。軍部による政治経済への                                                                  れたのは午後11時、そして20分後には空襲                      りを西へ歩くのをためらったのである。四ツ
     CHRONICLE
                                             介入が本格化し、 1938年になると「軍需工業動員法」が発動された                                                                警報が発令された。」との記述がある。栄三は、                     橋線はまだ広いから良かったのだが、立売堀                               片山栄 Ⅰ

                                             ほか「国家総動員法」も公布された。また、同年7月公布の「鉄鋼配給                                                                 この夜から翌朝までの様子を以下のように書                       北通りになると当時は現在の幅よりもっと狭                              そ と の 時代 一
                                             統制規則」による業界での統制が始まり、亜鉛鉄板統制会社が設立                                                                   き残した。                                      かった。その両側は炎々と燃えているのであ
                                                                                                                                                                                         るから第一熱い。第二に煙に巻かれて窒息し
                                             されたことで、資材の割当から生産・販売に至るまで、すべての業
                                                                                                                                               「空襲警報のさ中に防空壕の中でラジオ情                       ないかが心配である。人影は全く無い。物好
                                             務が亜鉛鉄板統制会社1社に委ねられることとなった。以後、商社・
                                                                                                                                              報を聞いていると『大阪市の中心部は一円に                       きにこんな早朝に焼けくすぼりの街を歩いて
                                             問屋の活動は次第に制限されていく。                                                                                                                                                                             Ⅱ
                                                                                                                                              燃えています。特に西区方面は火の手が盛                        いる人が私以外に無いのは当然だ。だが折角                               大阪 本全国 へ か ら 日
                                               栄一が立売堀北通4丁目に瀟洒な事務所を建てたのも、 1938年の
           立売堀川に浮く艀(出典:立売堀新町振興会編『立                                                  はしけ                                                       んです。』とやっている。ところが人間は欲な                      此処迄来た事だ、ええい儘よと炎の中の道を
           売堀新町振興会十年史』1956 年)                ことであった。当時、大阪港に着いた鋼材は艀に乗せて岸辺に運ば                                                                   もので、西区が盛んに燃えているとラジオが                       歩き出した。熱いには熱いが案外道は歩けた。
                                             れた。栄一は艀をそのまま立売堀川に引き込み、社屋の裏で荷を下                                                                   言っているのに吾が片山商店が燃えていると                       周囲に気を配り乍ら進んでいくと電車道に出
                                             ろせるように、川べりに事務所を構えた。そのため、事務所はやや東                                                                  言う実感が湧かない。『うちは川の畔(立売堀                      た。西立売堀である。オヤ、これは来過ぎたな
                                             に移動したのだった。                                                                                       は戦後埋め立てられた)だから燃えないだろ                       と引き返す。全く綺麗に燃えたものだからう                              Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 精神 の
                                               それまでの事務所は貸し店舗であったが、新しい事務所は自社所                                                                  う』位に思っていた。翌朝『ものの見事に跡形                      ちが何処か、隣が何処かまるで判らない。この
                                             有の2階建てで、 1階は15名程度が勤務する事務所、 2階は社員寮                                                                も無く焼けた』と言う連絡を受けて初めて驚                       辺と検討をつけてよくよく見ると、あるある
                                             となっていた。寮には栄吉も居住し、賄いの女性が食事の世話をし                                                                   いた次第である。                                   焼け釘が団子になって散らばっていた。ヘッ

                                             ていた。                                                                                              何はともあれ一応見届けて来ようと自宅                        ツイにかかっていた釜が溶けていた。」(『片
                                                                                                                                              を出、ガタゴトとやっとの事で動いている阪                       山鉄建株式会社の歴史』)                                      Ⅳ
                                                                                                                                              神電車に乗って単身梅田迄出た。そこで目に                                                                          近年
                                             中国大陸への進出―「上海片山洋行」設立                                                                              入ったものは、焼けくすぼった家具やふとん                         大阪府警察局の記録によると、この大空襲                             の 片山鉄建

                                                                                                                                              をかついでボロボロ涙を流し乍ら歩いている                       による被害は全焼13万4,744戸、半焼1,363
                                               1938 (昭和13) 年頃、まだ20歳に満たない北神嘉信が当社から中
                                                                                                                                              人の流れであった。『気の毒な事だ』と思いな                      戸、死者3,987名、重傷763名、軽傷7,737名、
                                             国に渡った。華北、華中、満州、朝鮮、樺太などへも商勢を拡大しつ                                                                  がら街へ出た。勿論市電やバス等何も無い、                       行方不明678名、罹災者50万1,578名とさ
                                             つあった当社は、中国に、現地法人を設けるべく「上海片山洋行」を                                                                  自分の足で歩くだけだ。所が歩き出すと私も                       れているが、数字には混乱もあり、その実態は

                                             1939年に設立した。「洋行」とは租界地区などにあった外国商社を                                                                 忽ち涙がボロボロ流れ出した。歌の文句じゃ                       よく分かっていないようだ。                                     第
                                             指す中国語で、当時は三井物産上海支店も三井洋行と呼ばれていた。                                                                                                                                                               1
                                                                                                                                                                                                                                           章
                                               ちょうど中国中北部で国民政府軍が激しく抵抗し、数多くの破壊                                                                                                                                                               「
                                             工作が仕掛けられた時代であった。同時期に中国に渡ったボルト・                                                                                                                                                                「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                             ナット専門商社、小林産業の創業者である小林正治氏は『鉄鋼問屋                                                                                                                                                                「
                                                                                                                                                                                                                                           「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                             変遷史』において、「商人も決死の覚悟なしには大陸へ渡れなかった」                                                                                                                                                              「
                                                                                                                                                                                                                                           「
           上海片山洋行(前列中央が北神)                   と語っている。                                                                                                                                                                                       「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「



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