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Chapter 2 1946 1949
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沿革編 沿革編
第 章 1946 1949 鉄板製造へ、淀川製鋼所 (1935年設立、 1940年に大阪トタン板を買収)
(昭和 24)年
(昭和 21)年
当社の事業も再び配給業務が主体となった。月星印は桜島の大阪
跡 の 焼 け ク か ら バ ラ ッ 統制経済の時代― 系の製品は三協鉄器や長堀橋の南海興業へというように、薄板・亜
鉛鉄板の割当切符を持って訪問するのが仕入れ業務で、入荷は少な
「闇行為は1トンたりともしてはならない」 く、時折入荷する製品の荷造りをするほかは電話番をしているよう
なありさまだったという。
戦争で疲弊した国を立て直すため、 1946 (昭和21) 年12月、第 物資不足を背景に、業界では闇取引が横行した。焼け跡に新しい
1次吉田茂内閣は石炭・鉄鋼などに重点を置いた傾斜生産方式を国 工場ができると、すぐにブローカーが訪れて製品を現金払いで買い CHRONICLE
家プロジェクトとして打ち出した。石炭の生産力、そして工業化の 取ってしまう。とにかく質よりも量が重視された時代で、どんな品
鍵を握る鉄が産業復興に不可欠であることから、「鉄は産業のコメ」 質のものであっても高く売れた。現在の問屋・商社のなかにも、闇
CHRONICLE
「鉄は国家なり」といった言葉がスローガンのように使われた時代で 取引で莫大な利益を得ていたところがあったと言われている。 Ⅰ
片山栄 と そ 時代 一 の
あった。 栄一はそのような状況を嘆き、社員には「闇行為は1トンたりとも
しかし生産量が乏しい上に国家事業が優先されたこともあり、一 してはならない」と厳しく言い渡した。栄一は1948年2月から1952
般に流通する鉄の量はたかが知れていた。終戦の年に稼働した高炉 年4月まで亜鉛鉄板西部問屋組合の理事長を務めており、立場の上
はたった3基であり、わずかに銑鉄20万 t、粗鋼55万 t、普通鋼鋼 においても闇行為に手を染めるわけにはいかなかったし、もとより
材36万 t が生産されたに過ぎなかった。 公明正大を商売の基本姿勢にしていた。 Ⅱ
大阪 へ 本全国 か ら 日
鉄鋼統制会が業務整理され、いったんは自由に売買できることに
なった鉄鋼製品だが、品不足とインフレーションのため、 1946年2 独自ビジネスの試み
月の「戦後物価対策基本要綱」により再び統制下におかれることと
なった。「鉄鋼需給調整実施要領」に基づき、「日本鉄鋼協議会」が統 物資の配給が中心であった時代も独自の商いがなかったわけでは
制機関として指定を受け、 59社の問屋が指定された。 なく、戦前より続く三井物産や官営八幡製鉄所とのつながりが戦災 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
復興院や進駐軍からの受注につながることもあった。戦災復興院は、
空襲によって破壊された都市の復興を目指して1945 (昭和20) 年11
月から1947年12月まで設置された国の機関で、国土交通省の前身
の一つであった。
当社は戦時中より軍需用の金網などを加工・納品することがあっ Ⅳ
たが、戦後の大きな商いについても加工を伴うものが少なくなかっ 近年 片山鉄建 の
たようだ。東京で戦災復興事業を実施するにあたり、 1946年末、当
社は戦災復興院から丸釘400t の加工を受注した。ただし、予算が
ないため支払いは物々交換となり、陸軍倉庫に保管されていた600t
の針金を当社が受け取ることになった。針金は丸釘の原料にはな
らないため、戦災復興院の発注証明書を用いて株式会社神戸製鋼所 第
(1905年、合名会社鈴木商店が小林製鋼所を買収し設立。 1911年、株式 2
章
会社として独立) より線材を入手し、丸釘に加工して納品した。
け 跡 焼
手元に残った針金は、三井物産の鋼建課より受注した防虫金網
3,000本に使用された。防虫金網30番 (3ʼ×100ʼ、 16目) は米国進駐 「 ク か ら バ ラ ッ
軍が京都の宿舎で用いるためのもので、進駐軍の発注証明書で神戸
昭和 20 年代の大阪本店 製鋼所から買い入れた線材とともに加工した。その売上は1,050万
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