Page 28 - 00_片山鉄建様_表紙
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1919 1945

     沿革編                                                                                                                                                                                                                                   沿革編
                                               栄一から「なんでもかまわないから売って来い」との命を受けて上                                                                                                                                                 E.K
                                             海に送り出された北神は、得意とする鉄鋼二次製品を足がかりにさ
                                                                                                                                         COLUMN-     4     終戦直後の片山商店
                                             まざまな事業を展開したようである。その一つに線引工場の経営が
                                             あった。国から補助を受け、三井物産と共同でワイヤーロッドから
                                                                                                                                               上海で終戦を迎えた俵谷武は、1946(昭和                     で、会社の財産は何もない、ただあるのは応召
                                             鉄線や釘を生産するもので、栄一や北神は、後に三井物産副社長と
                                                                                                                                              21)年1月19日に佐世保に上陸して自宅に                      された社員が早く無事帰国され出社してくれ
                                             なる稲垣登氏と仕事の枠を超えて親しい間柄となった。                                                                        戻った後、21日朝9時、軍服と雑嚢というい                      るのを待つのみです。』との説明です。お互い
                                               国内では1941年4月に鉄鋼統制会、 12月に鉄鋼販売統制株式会                                                               でたちで立売堀の店に出社した。焼け跡は整                       の無事を祝福して社長が持つ一片のパンを2
                                             社が設立され、それまで業界で行ってきた自主統制が政府による統                                                                   地されており、焼けトタンで囲いをした倉庫                       人で分け合っていただいたことは一生涯忘れ                              CHRONICLE

                                             制に取って代わられた。これに12月8日の太平洋戦争開戦が続き、                                                                  に31番の焼けトタン板1,000枚ほどが置か                     る事はできません。無から有を生む会社の状
                                             鉄鋼の緊急増産のため、 1942年12月10日、北京の石景山に500t                                                              れ、裏には焼けただれた丸釘が山積みにされ                       態、名門・先輩の問屋さんと同一スタートラ
     CHRONICLE
                                             級の溶鉱炉2基を建設する北支那製鉄株式会社の設立が閣議決定さ                                                                   ていた。                                       インに立った現況を知り、ただベストを尽く                               片山栄 Ⅰ

                                             れた。さらに金属の回収が実施され、寺社の鐘なども供出を求めら                                                                    ガス管に「事務所は住友銀行4階です」と貼                      すのみとお約束した次第です」(『片山鉄建株                             の そ 一 と 時代
                                             れた。当社は著しい規制を受けることとなったが、栄一は中国大陸                                                                   り紙がしてあったのを見て出向くと、2名の                       式会社の歴史』)
                                                                                                                                              社員が仕事もなく手持ち無沙汰な様子で座っ                         この頃にはようやく市電や地下鉄などの交
                                             での業務をさらに拡大し、 1941年に「天津片山洋行」を設立して隅
                                                                                                                                              ていた。しばらく待った後、11時に運動帽に                      通機関が回復し始めた。仕事には電話が必需
                                             田芳正に任せた。
                                                                                                                                              ズック靴姿で白い雑嚢を背負った栄一社長が                       品であったため、八方手を尽くして事務所に4
                                               国内では社員が続々と応召し、戦局がいよいよ厳しくなると、中                                                                                                                                                               Ⅱ
                                                                                                                                              出社。その様子を、俵谷はこう語る。                          本の電話回線を引いたが、戦災で取引先が大                               大阪 本全国 へ 日 か ら
                                             国大陸でも北神が現地召集され独立混成旅団に入隊した。また、天
                                                                                                                                               「『やあやあ』の声暫し、後は涙と涙の対面で                     変な被害を受けていたため、市内通話はほと
                                             津片山洋行も隅田が健康を害し、事業の継続が困難となった。                                                                     す。社長曰く『とにかくご覧のようなありさま                      んど通じない状況であったという。



                                             空襲と終戦―「商売続行!」
                                                                                                                                                                                                                                           Ⅲ
                                                                                                                                                                                                                                            片山鉄建 精神 の
                                               1945 (昭和20) 年3月13日、午 後11時57分から翌14日午前
                                             3時25分にかけて、米軍の B29爆撃機274機が大阪上空に現れた。
                                             空襲の照準点は北区扇町、西区阿波座、浪速区塩草町、港区市岡元町

                                             の4カ所で、北区扇町への爆撃は不首尾に終わり多くの地域が焼け
                                             残ったが、それ以外は見事なまでに焼き払われ、立売堀も一夜にし                                                                                                                                                                Ⅳ
                                             て灰燼と化した。                                                                                                                                                                                       近年 の 片山鉄建
                                               行くあてもないまま不安におびえる人々。しかし栄一は跡形もな

                                             く焼失した社屋を前に「商売続行」と号令をかけ、住友銀行立売堀支
                                             店の4階に事務所を借りて営業を再開した。
                                               相次ぐ本土空襲、そして広島・長崎への原爆投下を前にして、日

                                             本はもはや反撃する力を持たなかった。 8月10日、ポツダム宣言の                                                                                                                                                              第
                                             受諾を決定し、 15日に昭和天皇がラジオを通じて戦争終結の詔書                                                                                                                                                               1
           住友銀行立売堀支店(出典:立売堀新町振興会編                                                                                                                                                                                                          章
          『立売堀新町振興会十年史』1956 年)               を読み上げ、日本は長い戦争の時代にピリオドを打った。                                                                                                                                                                    「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「 「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                                                                                                                           「
                                                                                                                                       大阪空襲の被災状況(出典:立売堀新町振興会編『立売堀新町振興会十年史』1956 年)                                                          「
                                                                                                                                                                                                                                           「


        052  ◆  ◆  ◆                                                                                                                                                                         THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD.   ˗  ˗  ˗  053
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