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1990 2000
沿革編 沿革編
浦安営業所の開設 E.K
COLUMN- 32 情報システムの構築Ⅱ
神田に本社を置く東京商会は、千葉県浦安市と埼玉県川口市の拠
点にベンダーなどの加工機械を置き、好調な時代には小口取引先を
1980年代から1990年代にかけて、OA は 移行するとともに、グループウェア「Team
中心に年間15億から20億円規模のビジネスを行っていたが、 1990
大きく進歩した。当社においては、従来カタ WARE Office」を採用して掲示板システム
年代末に赤字決算が続き、さらには後継者問題も抱えていたことか カナ入力のみが可能であったシステムが漢字 や電子メールを導入した。ホストコンピュー
ら会社を売却する意志を固めるに至った。この情報を得た当社は、 入力可能となった。また、それぞれの営業所 ターは本社に配備されたオフコンが担い、電
首都圏の営業強化のため、東京商会の2拠点のうち浦安のみを買収 にホストコンピューターを導入して LAN を 話回線で各営業所に接続、クライアント(端 CHRONICLE
することにし、 2000 (平成12) 年2月に浦安営業所を開設した。東京 組み、福岡営業所における丸棒販売など、営業 末)には PC が使用された。また、これとは別
浦安営業所の加工場
商会の得意先のうち、北関東エリアに所在する企業については、北 所ごとの諸事情に対応できるシステムへと発 に工事関連のシステムを PC だけで組み、2つ
CHRONICLE
関東営業所が引き継いだ。 展させるとともに、本社だけではなく営業所 のシステムを連動させる形で業務を進めるこ 片山栄 Ⅰ
浦安営業所の所在地は千葉県浦安市鉄鋼通りで、日本最大の鉄鋼 でも会計データを出力できるようにした。 とにした。 と の そ 一 時代
流通基地である浦安鉄鋼団地の一角にあった。東京商会時代の社員 それと同時に、経理や給与に関するソフト 2000年代になり、川崎製鉄が合併して
ウェアを自社開発して PL(損益計算書)管 JFE となった際には、JFE のオンラインシス
は営業3名、事務1名、倉庫3名の合計7名で、全員を引き受ける前
理を開始した。その優秀さは口コミで評判と テムに接続して電子購買を行うため、EDI シ
提での買収であったが、社員の高齢化が進んでいたことに加え、以
なり、一般の企業から問い合わせを受けて、 ステムを新たに立ち上げた。EDI システムは、
前の経営者から買収の経緯や労働条件について十分な説明がなかっ Ⅱ
1991(平成3)年に「販売システム」の商品名 立売堀で川鉄製品を扱う3社(当社、三和金属 大阪 日 か ら へ 本全国
たことに反発する社員もあり、数名が退社した。
で2社に販売。価格は1,000万円程度で、メン 工業、薮本鉄鋼)が共同で使用するもので、3
その際にベンダーなどの機械を扱う社員が退社したため、川口の テナンスに対応できないため売り切りの形と 社共同で開発を行った。
人材を移籍するなどの混乱が生じたほか、地域密着型の小口商売で した。 2004年にはコンピューターを富士通か
あるがゆえに取引先との「人と人との関係」が強く、後任の営業担当 その後、1990年代前半には三原商店に当 ら IBM 製に切り替えて、システムを全面再構
者は新たな関係性を築き上げなければならないといった課題も発生 社と同様のシステムを、またダイムワカイに 築。それと前後して、2001年にヤマキ小林、 Ⅲ
片山鉄建 精神 の
した。 PAR システムを導入して情報共有を進めた。 2008年に株式会社吉田綱機と株式会社釧路
波乱含みの様相でスタートした浦安営業所であったが、雨樋など 1998年には新たなコンピューターシステ 吉田綱機(P166,172で詳述)へとシステムを
をはじめとする角波・丸波の長尺加工が行えるという特長を活かし ムを導入し、形態を分散集中から集中管理に 導入し、情報共有を進めていった。
て、東京営業所など社内からの加工依頼も受けながら業績を伸ばし
ていった。また、得意先の層が違うことから東京営業所とのバッティ Ⅳ
ングもなく、棲み分けの面から大きな問題にはならなかった。 近年 片山鉄建 の
第
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章
ル ブ バ 経済
「
崩壊
浦安営業所
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