Page 98 - 00_片山鉄建様_表紙
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Special T alks う に っ な を 板 扱 よ う た こ と 時 の を て 当 教 え 問 く と 屋 だ 「 」 さ い し て 鉛 亜 鉄 エ が こ と ク に 「東京亜鉛 」 ポ ッ た し に 系列下 の た っ な り ま な 川鉄 が 0 0 1
の系列化が始まりましたね。それぞれの会社 が、1913 (大正2) 年に創業した東京亜鉛鍍 福島 ● 川鉄の誕生は、1950 (昭和25) 年で
には窓口商社があり、我々のような特約店レ 金株式会社 (現・JFE鋼板) のマークは「赤鳩」 すね。 周年記念特集
ベルの会社がマーク (商標) を競って亜鉛鉄 印と、それに先立つ1911年に大阪で産声を 片山 ● そして千葉製鉄所の開始は1951
めっき
板を売り込むようになった。 上げた亜鉛 鍍 株式会社 (後の大阪鉄板製造 年。新しく高炉メーカーとしてのスタートにな
少し説明しますが、鉄鋼製品の中では珍し 株式会社) のマークは「月星」印が代表的なも ります。 Ⅰ
く、ブランドマークが最終販売・施工関係者 のでした。亜鉛鍍は民間で初めての亜鉛鉄
にまで大きく取り上げられるのが亜鉛鉄板で 板メーカーです。 いい製品を売ることで
す。昔は3×6板の中心部に、それを造ったメー ―― 当時の業界事情はどのようなものでした 人々の暮らしを変えたい
カーのブランドが1枚1枚打たれて、最終に使 か?
われる施工現場まで流れていく。川鉄系の代 片山 ● 大正から昭和の時代にかけては、二 ―― 片山茂会長が片山商店に入社されるのは、 出 進 果 を の へ 格 本 た す で 」 ね た し け わ 場 を 契 れ 「 そ 機 本 市 日 に 東 SPECIAL TALKS
表マーク 印と、歴史ある東京亜鉛の「赤鳩」 つの会社が東西の市場を分けていた。東は 1952 (昭和27) 年ですね。
印がそのブランドです。このマークを売り広め 先ほど言った東京亜鉛鍍金、西は大阪鉄板 片山 ● 当時、片山商店が主力とした市場は
ることが、営業の仕事になっていきます。 製造株式会社 (現・日鉄日新製鋼) です。 関西だったので、何とか関東から東日本に及
―― 連続亜鉛メッキが普及する前の亜鉛メッ 福島 ● 片山商店さんは1919 (大正8) 年の ぶ地域にも事業を展開したいと思っていまし
キは? 創業ですが、問屋として亜鉛鉄板を扱うよう た。それで1953年12月に東京営業所を開
片山 ● いわゆるドブ漬けメッキです。鋼板 になった当時のことをお聞きしたいな。 設したんですね。そして私が東京営業所に赴
をそのまま溶融亜鉛のメッキ槽に漬け込むも 片山 ● 終戦 (1945年8月15日) 後、しばらく 任することになりました。
ので、旧式だけどメッキ方法としてはもっとも の間、日本の鉄鋼メーカーは大転換期、大 営業活動のターゲットとしたのは東日本全
簡単だった。 発展時代に入ります。それまで圧延鋼材は 域、東北、北海道エリア。市場を拡げるために
福島 ● その当時、大手販売店の商標と言 平炉メーカー中心の時代から高炉の大量生 「赤鳩」ブランドの製品を売りたくて仕方が ね。降雪があるかないかの違いでしょう。北
えば何がありましたか? 産時代に入るのですが、そのスタートに川鉄 なかった。 国に住む人にとって雪は大問題です。冬にな
片山 ● このあたりは、古い歴史上の話です の千葉製鉄所設立があります。片山商店の 福島 ● 私が川鉄に入社する前のことですね。 ると日本海側では雪は間断なく降るし、屋根
専業品種、亜鉛鉄板も、時代の変化とともに 片山 ● そうです。福島さんは1968年の入社 に積もると家屋全体に大きな負担がかかる。
大きく変わります。 だから、10年以上も前のことになるのかな。 放置しておくと危険なんですよ。
福島 ● 戦後に川鉄が誕生して、その構図が 東日本市場における販売では「赤鳩」を扱 その雪を早く滑り落ちさせるには、瓦屋根
変わったというわけですね。 う東京亜鉛鍍金が圧倒的な力を持っていた ではなく、亜鉛メッキを施した薄板鋼板、つま
片山 ● そうです。片山商店の歴史もその時 んですが、この会社を川鉄が系列下に収め りトタン屋根が一番なんですね。だから東日
に大きく変わりました。 た。1955年のことだと思います。「赤鳩」ブラ 本では欠かせなかったし、普及した。西日本
福島 ● ところで、川崎製鉄との接点はどのよ ンドも取り扱えるようになったことは、東日本 片山 の温暖な地域で生活する人間にはわかりま
うにして生まれたんですか? そして会社とし 市場を目指す片山商店にとっては、事業を展 せんが、結果的にそうした需要のあることが
て取引が始まったのは、いつのことですか? 開するうえで大きなプラスになると思いました。 会社を大きくすることにもつながりました。
片山 ● 戦後間もなくだったと思います。一 ―― 追い風になったということですか? 福島 ● たしかに西日本は瓦屋根が多い。
福 島 枚の写真が私たちの家にありました。兄・栄 片山 ● もちろんです。これは当社の事業史の 降雪が少ないですからね。だからトタン屋根
三と私の兄弟は、この写真をよく眺めたもの 大きなエポック (画期) になったと思いますね。 が普及せず、需要も少なかった。
です。それは、神戸葦合工場で亜鉛鍍金工 ―― でも、市場開拓面では苦労もあったのでは。 片山 ● 当時の亜鉛鉄板の販売比率は、東
場の拡張量産投資が行われた時のもの。鍍 片山 ● 苦労というか、地域や風土の違いを が7で西が3くらいだったと思いますね。今
金上がりの鉄板ができ上がっていく新工場の 感じたことが一番大きかったですね。特に商 でもそうじゃないかな。東日本地域のほうが
現場に3人の人物がいる。指差しておられる 品ニーズの違い。それに戸惑いました。 割合としては断然多いと思いますね。特にカ
のが西山弥太郎初代社長、すぐ横で眺めて 福島 ● 西日本では、カラーの鋼板屋根の ラーの鋼板は東日本です。九州なんてほとん
いる一人が片山栄一 (創業社長) 、そしてもう 需要はほとんどなかったのではないかと思い 福 島 どありませんでした。
一人が、川鉄をその後、営業で支えていかれ ますね。どちらかというと瓦屋根が多かった。 ―― 東日本市場での売れ筋商品は何でしたか。 記念対談
る乗添さん。 片山 ● それは気候風土が影響しています 片山 ● 「赤鳩」も「月星」も、トタン板ではサ
私は、父・栄一から聞かされていました。「川
鉄自身がトタン板を作り始めて、西山さんに 【注】戦前、戦中、戦後しばらく亜鉛鉄板は、鉄板メーカーよりも、鍍金加工する鍍金メーカーが販売するものだった。東の東京亜鉛鍍金(商品ブランド赤鳩印)と大阪鉄板
『片山商店も扱ってくれ』と言われた」と。 製造(同月星印)の東西トップ2社があり、両社とも工業資本より商業資本の大きかった時代、森岡興業と岩井商店が経営していた。それが川鉄の出現頃から日本の
【注】
高炉メーカーがどんどん大きくなり、年産1億tまでに成長し、世界をリードする大量生産時代に突き進んでいく。昭和30年代~ 50年代は、鉄鋼の製造から販売の
流れが大きく変わり、さまざまなチャンスとピンチの場面が訪れた時代だった。
192 ◆ ◆ ◆ THE 100 YEAR HISTORY OF E.KATAYAMA & CO., LTD. ˗ ˗ ˗ 193